覚悟の一撃 2 ―― 人生論・状況論


イメージ画像(日比谷公園



価値は表層にあり ―― 表層を嗅ぎ分けるアンテナだけが益々シャープになって、ステージに溢れた熱気が、文明の不滅なる神話にほんの束の間、遊ばれている。表層に滲み出てくることなく、滲み出させる能力の欠けたるものは、そこにどれほどのスキルの結晶がみられても、今、それは何ものにもなり得ない。奥深く沈潜し、価値が価値であるところの深みを彷徨する時間を愉しむには、私たちは多忙過ぎる。動き過ぎる。移ろい過ぎる。ガードが弱過ぎる。沈黙の価値を知らな過ぎるのだ。



沈黙を失い、省察を失い、恥じらい含みの偽善を失い、内側を固めていくような継続的な感情も見えにくくなってきた。多くのものが白日の下に晒されるから、取るに足らない引き込み線までもが値踏みされ、僅かに放たれた差異に面白いように反応してしまう。終わりが見えない泡立ちの中では、その僅かな差異が、何かいつも決定的な落差を示しているようにみえる。陰翳の喪失と、微小な差異への拘り ―― この二つは無縁ではない。陰翳の喪失による、フラットでストレートな時代の造形が、薄明で出し入れしていた情念の多くを突き崩し、深々と解毒処理を施して、そこに誰の眼にも見えやすい読解ラインを無秩序に広げていくことで、安易な流れが形成されていく。そこに集合する感情には、個としての時間を開いていくことの辛さが含まれている分だけ差異に敏感になっていて、放たれた差異を埋めようとする意志が、ラインに乗って踠くようにして流れを捕捉しにかかる。流れの中の差異が取るに足らないものでも、拘泥の強さが、そこで「差異感性」をいつまでも安堵させないのである。
失われた沈黙を索めて(イメージ画像)
沈黙の価値を再発見したアラン・コルバン



人々を、視覚の氾濫が囲繞する。シャワーのようなその情報の洪水に、無秩序で繋がりをもてないサウンドが雪崩れ込んできて、空気をいつも飽きさせなくしている。異種の空気で生命を繋ぐには立ち上げ切れないし、馴染んだ空気のその無秩序な変容に自我を流して、時代が運んでくれる向うに移ろっていくだけだ。一切を照らし出す時代の灯火の安寧に馴れ過ぎて、闇を壊したそのパワーの際限のなさに、人々は無自覚になり過ぎているのかも知れない。視覚の氾濫に終わりが見えないのだ。薄明を梳かして闇を剥いでいく時代の推進力は、いよいよ圧倒的である。



照らして、晒して、拡げて、転がして、塞いで、削ろうとする。その照り返しの継続的な強さが、却って闇を待望させずにはおかないだろう。都市の其処彼処で闇がゲリラ的に蝟集し、時代に削られた脆弱な自我が突進力だけを身にまとって、空気を裂き、陽光に散る。陽光が強いから翳そうとし、裂け目を開いて窪地を作り、そこに潜ろうとする。陽光の下では、益々、熱射が放たれて、宴が続き、眼光だけが駆け抜ける。そこでは、刺激的なる一撃は、次の一撃までの繋ぎの役割しか持たず、この連鎖の速度が少しずつ増強されて、視覚の氾濫は微妙な差異の彩りの氾濫ともなって、いつまでも終わりの見えないゲームを捨てられないようである。動くことを止められないからだ。
「アイトラッキング」・眼球の動きを計測し、追跡する方法で、現在、心理学を中心にあらゆる学問フィールドで利用されている
「視線のカスケード現象」・二者択一の強制選好判断を行う際に、最終決定の直前に視線がより好ましいと思う方に偏るという現象(イメージ画像)
スマホゲームに熱中する子どもたち。課金に親のお金をつぎ込むなど、世界中でスマホゲーム依存症が問題になっている


捨てられず、後退できず、終えられないゲームに突き動かされて、落ち着きのない人々は愉楽を上手に消費できず、愉楽の隙間から別のアイテムに誘われて、過剰なショッピングを重ねていく。今、自分が手にしているもの以上の価値ある何かが、どこかにある。それを手に入れなければ済まない生理が、そこにある。バスを降ろされたくない不安の澱みが、単にそれを埋めるためだけの補填に走るのだ。



快楽は常に、より高いレベルの快楽によって相対化されるから、どうしても、このゲームはエンドレスになり、欲望のチェーン化は自我を却ってストレスフルにしてしまう。未踏の、豊饒な満足感に充ちた快楽との出会いは、それを知らなかったら、それなりに相対的安定の秩序を保持したであろう日常性に、不必要な裂け目を作るばかりか、それがまるで、魅力の乏しいフラットな時間に過ぎないことを、わざわざ自我に認知させ、自らの手で日常性を食い千切っていく秩序破壊の律動は、しばしば激甚であり、革命的ですらあるだろう。



幸福を手に入れるにも覚悟がいる。幸福が壊れたとき、幸福の大きさが不幸の大きさを決める。不幸の大きさに耐え難かったら、勢いにまかせて幸福のサイズを徒に広げないことだ。自我が処理し得る幸福のサイズというものがある。同時に、不幸のサイズというものもある。等身大の幸福を、継続的に確保できる者が最も強い。不幸の突発的なヒットによって崩されかかった物語の修復が、最も速やかに推移する確率が高いからである。どうしても壊されたくない幸福に拘泥する者は、その幸福に絡みつくリスクを、確実に処理し得るサイズの幸福をこそ選ぶはずだからである。幸福の選択に博打はいらないのだ。
イメージ画像(幸福感



過剰に演技する者がナルシズムを手放さないでいられる為には、更に過剰な演技を強迫する以外にない。演技する程に過剰なナルシズムだけが罰を受ける。自らを強迫して止まないナルシストは、常に起爆管を抱えた特攻戦士のようである。実際の敵は洋上になく、沸々と泡立って鎮まることがない内側にこそ潜んでいる。病者と天使を同時に装うナルシズムの異様な尖りは、声高なる進軍の果てに、死体を累々と積み上げていく。英雄への免疫が顕著に低下した時代の中でこそ、異様な尖りが月光に輝いてしまうのだ。ちまちまと、殆ど目立つことのないナルシズムだけが圧倒的に健全なのである。他人にからかわれて、忽ちの内に忘れられてしまうようなナルシズムの滋養をこそ大切にしたい。
カラヴァッジオによって描かれたナルキッソス(ウィキ)



人は皆、愛し合わなければならないという説教ほど胡散臭く、虫酸が走るものもない。現実にはありえないことだからだ。現実にありえないことを理念化してしまうから、そこに無理が生じる。無理な理想を追求するのは自由だが、それを倫理や宗教のフィールドで、いかにも起こり得る現象のような空気を過剰に作ってしまうと、しばしば、現実が理念に引き摺られて、そこに極端な物語が胚胎することがあるから厄介なのだ。「愛の不毛の現代状況」とか、「都市の砂漠」とか、「暗黒の近代」、「社会の荒廃と、その閉塞状況」等々という、一点拡大の不確かな時代像によって、平気で十字軍に与することができてしまう短絡性こそ、多くの「愛の戦士」の喰えない厚顔さである。
「愛の不毛」を描いたミケランジェロ・アントニオーニ監督の「情事」



人が憎しみ合うことが、なぜ悪いのか。単に同盟を結ばないことによって貫徹し得る憎悪こそ、人間の高度な知恵の結晶ではないか。「憎いけど殴らない」という学習もまた、そんなスキルの一つである。「憎悪の美学」の立ち上げもまた、充分に可能なのだ。



比べることは、比べられることである。比べられることによって、人は目的的に動き、より高いレベルを目指していく。これらは人の生活領域のいずれかで、大なり小なり見られるものである。比べ、比べられることなくして、人の進化は具現しなかった。共同体という心地よい観念は、比べ、比べられという観念が相対的に停滞していた時代の産物である。皆が均しく貧しかった人類史の心地よい閉塞が破られたとき、自分だけが幸福になるチャンスを与えられた者たちの大きなうねりが、後に続く者への強力なモチーフにリレーされ、産業社会の爆発的な創造を現出した。誰が悪いのでもない。眼の前に手に入りそうな快楽が近接してきたとき、人はもう動かずにはいられなくなる。昨日までの快楽と比べ、隣の者の快楽と比べ、先行者との快楽と比べ、人は近代の輝きの中で、じっとしていられなくなった。

比べられるものの質量が大きくなればなる程、人はへとへとになっていく。それでも止められないのだ。戻れないのだ。恐らく、それが人間だからである。その行き着く果てに何が待っているか、「インパクト・バイアス」の感情予測に攪乱され、しばしば、人は不必要なまでに甘めの予測を立てるが、決して真剣には考えない。それもまた人間だからだ。
「白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫」
イメージ画像 僕が-孤独を愛し-孤独と向き合える人-が好きな理由
現在の「三種の神器」は「ロボット掃除機・全自動洗濯乾燥機・食器洗い機」/画像は食器洗い機
インパクトバイアス」・未来の感情の予測を実際よりも大きなものとしてイメージしてしまう現象



「察知されないエゴイズム」 ―― これがあるために、一生、食いっぱぐれないかも知れない。人に上手に取り入る能力が、モラルを傷つけない詐欺師を演じ切れてしまうからだ。

「察知されない鈍感さ」 ―― これがあるために、不適切な仕草で最後まで走り抜けてしまうのかも知れない。そこに関わる自尊心も、過剰に保証されてしまうからだ。

「晒された、寡黙なる陰鬱さ」 ―― これがあるために、当人の周囲には不必要な保護の空洞が作られてしまうのかも知れない。自らの内側を、ゆっくりと、深々と掘り下げていく営為が価値である時代が崩れて久しいからだ。



初めからそれがなく、今もなく、未来もそれがないと予想されるなら、人は各々の小宇宙で等身大の幸福を享受するだろう。初めにそれがなかったのに、今はそれがあり、未来もあり続けるなら、人はやがて、それなしではいられなくなるだろう。初めからそれがあり、今も未来もそれが当然あり続けるなら、人はそれとの共存を疑うことをしないだろう。二十世紀の後半、先進国と言われる国々が到達したこの人類史の革命を、人々は未だ学習し切っていない。「初めからそれがあった者たち」と、「人生の途中からそれがあった者たち」との価値観の落差の大きさを、経験的に確かめることはとても難しいのだ。



作り出され、動き、取りにかかる。取ったら、それを食べ尽くし、捨てていく。捨てていく頃には、作り出されるものが生まれていて、また動いた後、それを取りにかかる。作り出されるものは「欲望」で、動かすものが「身体」、若しくは「知的営為」で、取りにかかるものを「生活」と呼ぶ。食べるという消費を経て、最後には廃棄が待っているのだ。私たちが所属する社会では、これらが螺旋的に循環するから、その基本的な流れは、肥大化することによってしか正常な枠組みを決して作れない。この枠組みの中枢に私たちの普通の意識が息づいていて、ここからのドロップアウトは社会それ自身からの脱落になる。そのとき、その意識は、循環型の自給経済に向かわない限り、枠組みからの様々な排除を覚悟する他にはない。労働に向かう身体は枠組みを守る意識に引っ張られて、そこに社会的関係が構築され、各々に上手に繋がっていく。「欲望の資本主義」という王道の底知れぬ求心力は、人類史上の到達が示した最も具体的な表現様態であった。
イメージ画像



私たちは、何もしないことが、とてつもなく不利益になると実感させるような社会を、とうとう開いてしまった。想像したことが達成されないと我慢し難いと実感させるような時代を、とうとう開いてしまった。私たちの近代の性急な速度に、誰も首輪を架けられないでいる。



自分が何者でもないことに耐え難い時代の幕が、とうに開いてしまっている。自分以外の何者でもないことを引き受けることと、自分以上の何者かであることを幻想することの間に、埋めようがないほどの深い溝が広がってしまっていて、人はもう、何者でもなさすぎる自分を蹴飛ばし続けるしか空気を食べられなくなってしまったか。それでも、空気を食べて生きていくには、日々に自分を喰い繋いでいくしかないのだろうか。自分は何者でもないが、何者でもない自分についての意識の主体ではある。この主体が今、ここに在り、それ以外にはありえない秩序に向かって常に動いている。この快感を、なお手放さない人だけが小天地を実感し、ゲームを愉しめる。



最も倫理的な釈迦ですら、妻子を捨てたし、「アヒンサー」を貫いたガンジーですら、不良少年を殴ったし、清貧に生きた良寛ですら、村人の援助なしには生きられなかった。博愛主義のシュバイツアーは黒人差別の言辞を遺し、強靭な信仰に生きたイエスですら、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」と叫んで、殉教への迷いを訴えた。かくも、倫理的な生き方を貫徹した「偉人」ですら、倫理的に生きることの難しさを示している。然るに、この不徹底さこそ、人間の救いである。敵を灰にするまで解体する人間の徹底した合理主義は、それを隠蔽し切れぬ脆さの前で朽ち果てた。脆さの自覚の中でこそ、信念や信仰が立ち寄るのだ。脆さの自覚が、束の間の輝きを放つのである。
インドの糸車を廻すガンディー(ウィキ)
長岡市隆泉寺の良寛像(ウィキ)
アルベルト・シュバイツアー(ウィキ)
磔刑図(アンドレア・マンテーニャ画、1459年・ウィキ)




一体、この国に強固なモラルで生きた時代があったか。規範の厳しさの多くは垂直下降の産物以外ではなかったし、私権の氾濫が現出するまでは、「世間」という名の「視線の心理学」が空気を決めていた。今はマスメディアがモラルや意見をリードし、衰弱化しつつある「世間」という空気を補強するのだ。共同体の解体が気配りのイデオロギーを崩してしまえば、あとはもう、何でもありの文化アナキズムが、当然の如く生まれるだろう。確信的に共同体を壊してきた私たちの中に、未だ覚悟の足りないヒューマニストもどきが、数多、呼吸を繋いでいる。



ルールの設定は、敗者を救うためにあると同時に、勝者をも救うのだ。戦いの場でのテン・カウントは勝敗の決着をつけると共に、スポーツの夜明けを告げる鐘でもあった。これは、プロ野球経営評論家・坂井保之の名言である。死体と出会うまで闘いつづける愚を回避できたことが、どれだけ多くの勝者を救ってきたことか。スポーツの誕生は、光の近代を娯楽の中で検証して見せたともいえる。それにも拘らず、遺伝子治療によって筋肉を増強するという、近年の「遺伝子ドーピング」の問題に象徴されるように、未知の領域が次々に開かれていく現代科学の状況に対して、何とか追いつき、並走するだけのスポーツルールの、この寒々しさ。ルールに関わるあらゆる営為に対応するに相応しい、新たなルールを設けていくことが、結局、自らを救済することになる真理を学習し切るのに、私たちはもう少し無残な血を流さねばならないよのか。加えて、「ヘイゼルの悲劇」の例を出すまでもなく、スポーツを観る側にも最低限のルールの確立が切に求められる常識が、なお未形成なのだ。私たちが、人間学的に存在し得ない「最高のルール」なるものと出会うまで、数多の最低のルールを通過する辛さから、とうてい解放されない現実が、そこにある。
坂井保之
ヘイゼルの悲劇」・39名の死者を出した、サポーターの乱闘事件



選択肢が多い社会。それが自由社会の強みである。同時に弱みでもある。情報の過剰な氾濫を防ぎ切れないからだ。当然、その中には、不快な情報をも不必要なまでに含まれている。移動も多いから出会いも多い。不快な出会いの機会も増していくだろう。家族共同体の温もりの中で安定していた自己像が、流動激しい社会の中で大きく揺れ動く。評価も定まらず、リアリズムの洗礼を受けて、一気に不快情報が自我にプールされるのだ。自由と豊かさの代償は、ミスマッチな不快情報との遭遇機会の増大化であると言っていい。だからこそ、情報処理の合理的なスキルが求められるのだ。不快情報を上手に中和する自我の処理能力レベルこそが、人々の幸福の質を決めるのである。近代を快走する決め手は、「不快の中和化」の高度な技巧の達成にある。



シネコンが不潔な名画座を駆逐して、隣室の騒音を遮断するスラブ厚敷きで、インナーサッシのマンションや高級サービスアパートメントが、ハウジング・プアの広がりの中でも、木造アパートを次々に解体する。ウォルマートは「焼畑商業」によって商店街を再生不能にし、派手なホームラン合戦が、「貧打戦」という揶揄を被せた「投手戦」の醍醐味を反古にする。目立った快楽は、平凡なだけの快楽を確実に廃棄するのだ。
サム・ウォルトン・全米最大の銃販売業者・ウォルマートの創業者(ウィキ)
ハウジング・プア



普通の規範を装っているに過ぎない学校に通えないのは、家庭の快楽との間に落差が大きいからでもある。「社会に出れば愉しいことが待っている」と若者に思わせた時代はとうに去り、今や、蓄熱された家庭での温もりを捨て難くなってきた。かつて、若者を早く自立させた「快楽の落差」という仕掛けは逆転し、その逆落差の故に自立の根拠が悉く崩された。現代に即した見栄えの良い「快楽の落差」こそ、数多の人々の決定的な行動原理となって、なお、近代の目眩く快走を深々と印象づけている。



豊かさは自由を求める。自由の濃度が深くなると、自由の実感主体は、その主体についての権利感覚が増幅し、私権のエリアの確保と保証に拘泥するようになる。私権の拡大的定着が加速的に進むのである。私権意識の増大は、価値相対主義のイデオロギーに流れつく。価値相対主義の蔓延の中で、自我強き者は強制力への反応を、その自我に繁殖させ、自我弱き者は絶対的なるものへの精神的帰属をリサーチして止まなくなる。自らが帰属するに足らない絶対的なるものが手に入らない限り、総じて、人々の規範意識は手に入らない限り、巷間ではあまりに過剰なパフォーマンスが、其処彼処で展開される。こうして、一見、人々の濃密な繋がりは姿を消し、無秩序を装った未だ馴染みにくい秩序が、やがて裾野を広げていく。豊かさは必ず、「秩序の革命」へと至るのだ。
自我弱き者は「絶対的なるもの」への精神的帰属をリサーチし、全体主義が包括する「選ばされた自由」(「強制的同一化」)の幻惑に呑み込まれ、「無思考状態」に振れていくと警鐘を鳴らし、ファシズムの心理学的ルーツを解明したエーリッヒ・フロムの代表的著書



多分に懐古趣味に流れていく者たちは、本気で「共同体回帰」を望んでいる訳がない。蜜の味の一切をかなぐり捨ててまで、その者たちが「古き良き時代」への原点回帰を志向しているとは到底考えられないのである。偶さか、甘いものを食べ過ぎて、それを摂取することを悔いたとしても、特段に命の別状がない限り、「決して甘いものは喰わない」と嗜好転換する決意を固めたつもりの、件の者たちの観念の砦が、一片の感傷を入り込ませないという精神武装によって、俗世界が撒き散らすトラップを突き抜ける強靭さを持ち得るとは、私にはとても思えないのだ。なぜなら、私たちは殆ど確信的に、「近代」が包摂する様々な利器や快楽を勝ち取ってきたのであり、そして、半ば暗黙裡に「共同体社会」を破壊してきたのである。自らが壊してきたものの中に、単にノスタルジックな喪失感覚を甦生させるような離れ難さを覚える何かが含まれていたとしても、せいぜい、そこで私たちが為し得るのは、その上辺だけの装飾を自分たちの暮らしや観念に接木することでしかないだろう。それは恐らく、自己欺瞞以外の何ものでもないのだ。
イメージ画像(岡山県「吹屋ふるさと村」
イメージ画像(山形県・飯豊町



甘いものを散々摂取してきた私たちができ得るのは、明日に繋がる「今日」という時間を、どれほど丁寧に生きていけるかというその一点のみであって、それ以外ではない。私たちは、そこに辿り着きたいとどこかで思っていた場所に、遂に辿り着いたのであり、その辿り着いた場所を壊してまで戻りたい場所があるはずがないのだ。仮にそのような者がいたとしたならば、その者は決して、私たちが辿り着いたこの場所で心地よく共存している訳がない。だから、奇麗事で塗りたくった中身のない言辞を吐き散らすのは、もう止めた方がいい。私たちは常にどこかで愚かであり、醜悪であり、あまりに不完全なるホモサピエンスでしかないのである。
イメージ画像(大都会夜景



東大を出た人が、自分を知らない人に自分を説明するときに、その学歴について全く言及せずに済ましたら、却って不自然に見られる空気が未だ残っている。自分が或る一定の能力をもつことを示す有効なカード ―― それが学歴である。そのカードを使うことによって得るものが、それを使うことによって失うものの大きさを圧倒的に上回っていると信じられるから、最終学歴で勝負する「学歴ロンダリング」が有効なのである。このカードの直接効果は差別化の満足感であり、間接効果は自己宣伝のコストの節減であり、膨らませた自己イメージを丸ごとセールスする様々な経済効果である。社会に出てから十年程の前線状況下で、このカードを最も有効に使えなかった者には、逆に押し返されて、このカードの重しが人格を蝕んでいくという反跳現象も待っている。カードの取得者にも覚悟が必要なのである。
学歴ロンダリング


虐めとは、身体暴力という表現様態を一つの可能性として含んだ、意志的・継続的な「対自我暴力」である。最悪の虐めは、相手の自我の「否定的自己像」に襲いかかり、「物語」の修復の条件を砕いてしまうことである。その心理的な甚振りは、対象自我の時間の殺害をもって止めとする。時間の殺害の中に、虐めの犯罪性があると言っていい。



単に暴力が怖いのではない。それが、いつ、どんなときに、どんな形で走り出すか分らないから怖いのだ。「法則性なき暴力」が最悪の暴力である。それを断ち切るためには、そこに形成されている理不尽な「権力関係」を破壊せねばならない。そのとき、貴方は尊厳を死守するためのテロリストになる。相手の理不尽な「法則性なき暴力」を壊す「正義派テロリスト」になる。「公正の観念をコアにして、ルールによって守られる秩序を維持し得る様態」 ―― 「社会正義」(SOCIAL JUSTICE)の視座から言えば、これが「正義」である。「法則性なき暴力」という、ルールなきアナーキーな状態を破壊するには、この「正義派テロリスト」にまで上り詰めねばならない。人はどれほど覚悟して、そのような「正義派テロリスト」になり得るのか。
アーモン・ゲート少尉による「法則性なき暴力」を描いた、映画「シンドラーのリスト



一度作り出された空気は、その空気を作った人為的な環境が変わらなければ、それが特定的なリスクを再生産する空間では、永劫に続くような何ものかになっている。常に確信的な視線の背景には、それが帰属する集団の価値観を体現する空気があるのだ。その空気が個人の内部に留まらないで〈状況〉を作り出し、行為として表現されるとき、そこに差別が生まれる。差別とは、単に感情や意思のことではない。人間は必ず内と外を分ける境界を作り、異なった価値観を排除する意思によって生きていく。その価値観に情感系が丸投げされるとき、それを偏見と言う。その偏見が行為として表現されてしまえば、それらは本質的に差別行為となっていく。だから、身体化された差別は全て表現的行為なのである。視線もまた、しばしば最も性質の悪い差別となる。私たちは迂闊にも、視線の背景を覆う空気を自ら作りかねないし、或いは、そんな空気に囲繞される不幸と無縁であり続けるという保証もないのだ。



スポーツは純粋で美しく、且つ、感動的であるという手強い幻想は、それに熱く関わる人々に届けられる名状し難き心地良さと、決して無縁ではない。この幻想のお陰で、世のスポーツマンの多くは、人格セールスのコストを削減できた分だけ、イメージ定着率の速度は群を抜くに違いない。十九世紀の国際登山レースで、下にいるイタリア隊めがけて岩を落としたクライマーの話を信じないのは自由だが、スポーツマンの感動性の否定をも描いた、「炎のランナー」というイギリス映画のリアリティは必見ものだった。スポ根物語も、友情の迸る輝きもここには何もなく、ただスポーツというステージで、人生を切り取る若者の息吹が記録されていただけだ。それ故にこそ、映画は新鮮な感動を生んだが、当然の如く、不入りだった。以来、アンチ感動のスポーツ映画は滅多に見ない。
映画「炎のランナー」より
モンブランのクレバスを行く登山者たち(1862年・ウィキ)



かつて、某民放に長寿の人気番組があった。歴史上の人物を取り上げて、泣く子も黙る英雄に仕立て上げる。どんな人間にもある筈の人格的欠陥に言及するときでも、不幸な環境との脈絡の中で特定的に拾い上げていくから、最後は、女性ゲストの涙と、思い入れたっぷりのナレーションでまとめてしまうのだ。強引に感動篇を放ち続けることに、何か特別の使命感を背負っている者のように、恣意的に他人の人生を切り取って、視聴者に感動の共有を迫っていく。この程度で感動を呼べると考えているかのような無邪気な感覚に言葉を失うが、近年著しい、表文化の「善転がし」の氾濫に赤面する日々が続いている。裏文化からの「善殺し」もまた止まらない。「善」を巡ってのテロルや闇討ちは、己を隠さなくなった善行者の無邪気な振舞いへの強烈なリバウンドになって、喚起し続けるのか。



世界は既に貴方なしで動いていた。世界は今も貴方なしで動いている。世界はもう貴方なしに動いていく。貴方だけが世界なしに動いていけない。貴方だけが貴方なしに動いていけない。宇宙は、意志なしに創造されてしまったのだ。世界は、貴方なしに動いてしまっているのだ。貴方もまた、決意なしに飛び出してしまったのだ。そして世界はまた、貴方なしに化け続けているのだ。宇宙もまた、貴方なしに壊れていくかも知れないのだ。貴方は世界なしに生きられるか。宇宙なしに呼吸を繋げるか。歌えるか。踊れるか。この人間社会の根源的な理不尽さに堪えられるか。そこを突き抜けられるか。貴方なしで平気で動く世界を壊さずにいられたら、貴方は既に、固有の律動を手に入れつつあるかも知れないのだ。そこまで行けるか。そこまで潜り込めるか。
局部銀河群最大のアンドロメダ銀河・250万光年の距離(ウィキ)
ビッグバン理論では、宇宙は極端な高温高密度の状態で生まれたとされる(下)。その後、空間自体が時間の経過とともに膨張し、銀河はそれに乗って互いに離れていく(中、上)(ウィキ)



人は決してあるがままの世界に生きているのではなく、その世界を様々に解釈して、時代の加工を重ねながら、皆、自分なりに切り取って生きているのである。変化の幅と速度が大きいために、人々の解釈の変更が定まらず、秩序なしに落ち着けない感性の主には、今や、手頃な「消費としての癒し」だけが救いのコードになっている。百万円を払えば、クルーズ船で南極観光が容易に手に入る時代が置き去りにするのは、サムシンググレートを消費した後に、自らが覚悟なくして降りて行けない「エンドレスな日常性」の、その寒々とした風景であるのか。
南極クルーズ


どうも私たちは、過剰な視覚文化の中で想像力を貧弱にさせた結果、様々な意味での距離感を失ってしまったらしい。環境や状況における自分のサイズが測定できなくなって、正確な自己像を描けなくなっているのだ。だから、いつまでたっても、等身大の生き方に逢着できないのである。近代文明社会に呼吸する私たちは、その文明が必然的にもたらした過剰な快楽と塵芥の中に、せめて自分に見合った日常性を構築するしかないのだ。私たちはこのリスキーだが、しかし、快楽の種子が存分に詰まっている社会に呼吸する。これはもう避けようがない。いつでも私たちは、「いま」と「ここ」に生きていて、これも避けようがない。避けようがない私たちの宿命は、多分、人類史の宿命そのものだろう。散々、甘いものを摂取して肥満になった責任を、社会に押し付けるのは止めたほうがいい。文明の恩恵に素直に感謝しつつ、相応の覚悟をもって時代と付き合っていくしかないのである。



都市生活者が身近な距離に住む者の不幸に鈍感でいられるのは、その者との心理的、且つ、生活的な距離感が隔たっているからである。そして、そのことによって他人の不幸が自分の不幸に直結しないという現実。これが何より重要なのだ。同時にこのことは、私たちがより豊かな生活と私権の拡充を求めて、半ば確信的に壊してきた村落共同体の社会において、その成員が他者の不幸の現実に寄り添うことができたのは、まさに他者の不幸が自分の不幸に直結してしまうからであることを示している。だから人々は、皆、優しかったのであり、過剰なまでに他人のプライバシーの中に侵入してきたのである。この社会が今、もうこの国では殆ど絶え絶えになっているということ、その認知こそがここでは重要なのだ。だから都市生活者が常に冷淡であるという把握は、事態の本質を無視する極めて乱暴な議論という外にない。
イメージ画像(渋谷スクランブルスクエア



均しく貧しかった時代の終焉を告げる象徴として、人とほんの少しの差をつけることに人々が怒涛のように雪崩れ込んだ、この国の教育加熱現象があったのは印象深いところである。思えば、私たちが否定的なニュアンス含みで使用する「学歴社会」という概念は、実の所、能力以外で人を差別する社会を克服する一つの達成点でもあった事実を無視するわけにはいかないであろう。教育加熱現象は、そんな社会が生み出した一種必然的な結果でもあったということだ。
イメージ画像(進学塾



勝気の強がりは、実は自壊感覚の否定の自己確認である。強がりの奥に広がる「喪失のペシミズム」が、遂に玉砕戦という禁じ手の封印を解く。「砕けて散る」ことは、早く楽になる戦術であるばかりか、格好も付けられる。これは相手を畏怖させる絶大の効果を持つばかりか、味方を奮起させる。恐らく、この味方に対する見栄こそが、玉砕戦の心理のコアにある。
「ぺリリュー島の戦い」/約2300人の戦死者の4倍近くの戦傷者を出した米軍よりも、34人の生存者のみで、10000人以上の戦死者を出した「ぺリリュー島の戦い」(パラオ諸島)は、「硫黄島の戦い」・「沖縄戦」へと続く、典型的な玉砕戦だった(ウィキ)



「閉塞感」 ―― 私が最も厭悪する言葉の一つである。人々が「閉塞感」と言うとき、それは様々な情報の洪水の包囲網にあって、自らの意志的決断による人生の切り拓きを、能動的に向えない脆弱なメンタリティの言い訳であるか、それとも、明日のパンの保障がないギリギリの生活環境とは無縁に生きてきた者たちの、それぞれのアイデンティティの欠如感覚を言い換えた、安直なる概念に過ぎないのである。動くべきときに動かず、走るべきときに走らず、どこかで何となく浮遊しているような気分の様態を、私たちは感覚的に、「閉塞感」と呼んでいるだけなのだ。
イメージ画像(閉塞感



「12人の怒れる男」(シドニー・ルメット監督)という有名な作品がある。一人の強靭な意志と勇気と判断力を持った男がいて、その周りに11人の個性的だが、しかし、決定的判断力と確固たる信念による行動力に些か欠如した、言ってみれば、人並みの能力と感情の継続性を保有するレベルの者たちがいた。その中には、理屈に偏向する者や、感情や経験に大きく振れていく者もいたが、しかし決定的局面では、決定的判断力を示した一人の男の、その一貫した主張のうちに吸収されてしまう継続力の脆弱さを、まるで敗者の如く露呈してしまったのである。しかし、よくよく考えてみれば、11人の者たちが示した人間的な思考や感情こそが、通常の生活次元での表現であったと言っていい。なぜならば、〈状況〉に応じて振れていくのが人間であり、その〈状況〉が展開した変化のうちに真実が見えてくれば、その真実に対して肯定的に反応していくのが、人間の平均的な行動の様態であると言えるからだ。従って、この映画は優れた傑作であることは否めないが、しかし、一人の「平凡」な顔をしたスーパーマンによって、極めて困難な空気を決定的に洗浄させてしまった作品として、「正義・人道・弱者利得」というハリウッドの基本的映画文法の範疇に収斂されてしまったのである。それは、常に強い指導者を希求して止まない、アメリカという特殊な文化風土が生み出したヒーロー譚と言ってよかった。裏返せば、アメリカという、多くの民族を束ねる帝国的な国家に住む者たちが、そのようなヒーローを必要とせざるを得ない強面の過剰さを、いつもどこかで内包している現実を物語っているとも言えるのだ。
映画「12人の怒れる男」より



「自我が精神的、身体的次元において、統御可能な範囲内にある様態」 ―― 私はそれを「人間らしさ」と呼ぶ。例えば、耐え難いほどの肉体的苦痛が継続するとき、間違いなく自我は悲鳴を上げ、その苦痛の緩和を性急に求める。しかし、その緩和が得られないとき、その自我は確実に抑制力を失い、破綻の危機を迎えるだろう。或いは、身体の四肢麻痺状態が、その身体の物理的破壊に及ぶまで永久に続くことが回避できないとき、当該患者は、自分の身体の介助を他者に絶対依存しない限りその生存の保障はない。従って件の患者は、自らの身体の清拭を他者に依存するばかりか、排泄の全面的な介助をも求めざるを得ない。カテーテルによる排尿を世話してもらったり、糞便の処理まで依存することになるのだ。譬えそこに、相手の善意を感受することができたとしても、「絶対依存」とも言える、その現存在性を何十年もの間、継続させてきて、機能を失った殆ど別の物体と化した自己の身体に、一貫して馴染むことができず、更に、その自我が、それ以前から作ってきた自己像との矛盾を克服できないとき、人はそこに、自らの人格としての尊厳を受容することが可能だろうか。「人間らしさ」の喪失とは、以上の例で明瞭である。即ちそれは、自我が自らの現存在性と折り合うことができない状態のことであり、まさに、その折り合いのレベルこそが人間の尊厳の度合いであると言っていい。私たちが人間の尊厳について定義するとき、どうしても、そこに抽象的なニュアンスが含まれてしまうのは、個々の尊厳観が微妙に異なり、極めてその相対度が高いからである。そこにこそ、尊厳死の問題の難しさと深淵さがある。
カテーテルによる導尿
「尊厳死」の法制化に揺れる日本



世界一の長寿国という建前の誇りの陰に、他者の介護なくして生存できない弱者なる者たちが無秩序に、奥深くまで散らばっている。彼らにとって決定的なのは、介護する者の手の温もりとその眼差しの行方である。誰によって介護されたかではなく、介護する者との関係性において、どのような心理的共存を可能にしたかということ ―― それ以外ではないのだ。相手の温もりと眼差しの評価は、一人、弱者の独断と偏見のうちにある。この我が儘だけが弱者に与えられた特権的権力である。然るに、この「疾病利得」という「権力」を無闇に行使する弱者の運命は、先が見えている。張子の虎の権力者は、合法的に遺棄される運命を免れないのだ。だから、利口な弱者は幻想の「権力」を小出しにするか、或いは、それを垣間見せるだけで精神的優位を確かめようとする。この半ば潜在的優位感だけが、自らの絶大なるハンデに拮抗するのだ。ここで手に入れた関係幻想が何某かの快感を随伴してきて、不快なるものを駆逐できれば、幻想の崩壊の少なからぬ防波堤にはなるだろう。
イメージ画像(介護


フィリップ・アリエスの「子供の誕生」などの著作に詳しいが、18世紀のブルジョア家庭から子供を可愛いがる風習が生れ、余剰農産物を獲得した余裕から、親にとって子供は情緒的満足の対象となっていく。因みに、「エミール」の著作で名高いルソーは、自分の5人の子供を全て施設に捨てたという公然たる事実があり、「告白」に詳しい。これがフランス革命前のヨーロッパ社会の一般的風景だった。歴史上初めて、「子供」が普遍的に「発見」されたのである。「子供」の発見は、同時に、「青年」や「女性」の発見でもあり、「少年期」や「青春時代」の誕生でもあった。木村尚三郎(「家族の時代」)によると、「女性」が発見されたのも、この近代社会の過程を通してである。それまで女性は、少々力の弱い大人であり、中世では、夫の代わりに相手貴族と「法廷決闘」する権利を持っていたのである。近代社会が一切を変容させていく。近代になって、女性と子供は男により保護されねばならない存在とされ、むしろ、社会から除外されていった。(ナポレオン法典では女は無能力とされ、夫の家長権が確立する。女性の無能力制度の確立である)「青年」や「女性」の発見は、同時に、「恋愛」の誕生を告げたとも言える。青春期に愛を育み、遂に結婚に至るという、西欧型の「恋愛物語」というものが近代の産物ということなのである。

フィリップ・アリエス



譬え、そこに時代の制約があったとしても、ブルジョアジーにとって、近代家族とは、恋愛結婚を経てゴールインしたカップルが、そのまま恋愛物語を平行移動させた結果、創出された心地よき小宇宙だから、最初から「過剰なる情緒性」を同伴させている。このカップルに子供が生まれるや、彼らの「過剰なる情緒性」は子供に流れていく。近代家族を特徴づける核家族は、丸ごと情緒性に満たされているのだ。核家族としての近代家族が、愛情原則によって貫流されているのは、その本質が情緒的共同体として機能しているからである。「過剰なる情緒性」 ――― これこそが、近代家族の求心力であるからだ。
イメージ画像(近代家族



近代社会は私たち人間に、ペット犬を飼う経済的余裕とその適正飼育のノウハウを保障してくれた代償として、一部の犬を自然の法則から解放し、人間が保護しなければ存在すら不可能なまでに人工化してしまった。これを「ズー・セオリー」と言うが、ペット犬とは「ズー・セオリー」の一つの到達点である。しかし驚くに及ばない。近代社会の「ズー・セオリー」は、対人間への支配戦略において完成をみるのである。アメリカの旧信託統治領への食糧管理戦略は、「ズー・セオリー」の極点である。人を支配したければ、食糧を与えるに限るということだ。
イメージ画像(ペット犬



「鳥は生を名づけない ただ動いているだけだ 鳥は死を名づけない ただ動かなくなるだけだ」 ―― これは、谷川俊太郎の有名な詩の一節だ。鳥や他の動物がただ動いているだけでないことは、「キツネさんキツネさん理論」(餌を求めて雛が親を恫喝)や、ザハヴィの「ハンディキャップ理論」(捕食を断念させるようなパフォーマンス)などによって否定されるだろうが、「死を知らない」ということだけは否定しようがない。なぜか。動物は自我を持たないからだ。自我とは、極言すれば、「死」の認識なのだ。これは人間とって不幸な事態でもある。なぜなら「死」の認識によって、「死」への恐れが生じ、過剰なほど卑屈な態度を晒し、且つ、その振舞いを目撃する羽目になったからである。「死」を発見した最初の人類が、あのグロテスクなネアンデルタール人であるという点に関しては異論がなさそうだ。イラクのシャニダール遺跡から出土した埋葬遺跡は、彼らが明らかに「死」を意識した最初の人類であることを物語るだろう。彼らは友人や親や子の死体を埋葬し、しかもタチオアイなどの花を添えることで、その死を悼んでいるのである。驚くべきことは、この遺跡から身体障害者と思われる仲間の埋葬も確認されている。これは人間の、人間に対する哀感や共感の感情が、既に発生していたことを検証するだろう。即ちこの遺跡は、人類に自我の誕生を告げる決定的な遺跡と言えるかも知れないのである。恐らく、絶やすことなく、多くの子孫を残すという「適応度最大化の戦略」に失敗したであろう彼らは、私たち人類の直接の祖先ではないが、彼らが肥大化させた脳と、ほぼ同質の大脳新皮質を持つ私たちホモサピエンスは、その極端に肥大させた脳によって、超文明社会を構築するに至った。一切は、私たち自我の為せる技なのである。
ザハヴィの「ハンディキャップ理論」・ガゼルの跳びはね行動(ストッティング)は、自分が健康であるということを捕食者に示し、捕食行動を断念させるという仮説を説いた

シャニダール洞窟の入り口(ウィキ)
ネアンデルタール博物館での展示(ウィキ)


人間のDNAと99%の類似を示すチンパンジーですら、どうも「死」を認識できないようなのだ。ある母親チンパンジーは自分の子が死んだとき、いつまでも我が子の死骸を抱いて移動していたという報告がある。これは我が子の死を悼んだ母子の情愛を示すというよりも、共存によって生じた愛着によって、我が子の「死」を認識できずに、方向性を持てない振舞いを継続させていると考えた方がいいかも知れない。なぜなら、仲間の死に対して全く何の反応もしないという多くの報告が、ジェーン・グドールらによって示されているからだ。人間に最も近いと言われるボノボですら、自我の痕跡が認められないのである。人間だけが、「死の文化」を持つのだ。幸島のニホンザルのイモ洗い文化や、グドールが報告したチンパンジーのシロアリ釣り文化などを、文化のカテゴリーに含めねばならないだろうが、それでも人間の文化と、それ以外の霊長類の文化は厳然と分けられよう。人間の文化とは、ある種の「自我の拡大衝動」による極めつけの観念装置であると考える外はないからである。

ボノボの性行動は人間のそれに近いことで知られる(ウィキ)
イモを洗って食べる宮崎県幸島の野生サル
チンパンジーのシロアリ釣り


子供が大人になるための特殊な時間を用意してくれた近代社会は、「国民国家」の社会でもあった。資本主義経済の登場によって、人と物の移動を制限する必要から生まれたこの社会は、国家の権力が及ぶエリアに「国境」という名のボーダーラインを引いて、その域内に住む人々を「国民」と命名した。当然の如く、「富国強兵」を目指したこの「国民国家」は、「主権」、「領土」と共に自らの拠って立つ基盤を構成する、自国の「国民」に対する外的強制力を必然化した。子供は、一日でも早く「国民」に育てねばならないのだ。ここに学校教育が誕生した。「国民国家」の、この外的強制力の中で「青春期」が分娩されたと言っていい。その特定的な時間の中で、この「国民国家」は、いつか「国民」に成長するであろう子供たちに、文学などに親しむ一定程度の時間を許容したのである。「シュトゥルム・ウント・ドラング」とは、このような国家の許容範囲の内側に開いた「青春」誕生のモニュメントであった。
「若きウェルテルの悩み」と共に、シュトゥルム・ウント・ドラング運動の代表作・シラーの「群盗」初版(ウィキ)
フリードリヒ・フォン・シラー(ウィキ)
ブルボン朝を倒したフランス革命の起点となった、アンシャン・レジーム支配の象徴・「バスティーユ牢獄襲撃」(ウィキ)・啓蒙思想を推進力としたブルジョワ主体の市民が蜂起して、領主・農奴関係などの封建社会の上に成り立つ絶対王政を倒し、「国民」が主権者となる「近代国家」が形成された。フランス革命は、その典型的な市民革命



人間の自我は、どこかで、自己完結性を確認していないと生きていけない特性を持つと言っていい。始まりがあって終わりがあれば、それだけで人々は、その固有の人生を特定的に区切って上手に生きていけるのだ。これが、人々をして、スポーツや、各種の「道レジャー」に熱狂させる一つの心理的因子である。私たちはスポーツに、「疑似自己完結性」を求めたのである。これは近代産業社会が、本質的に拡大再生産的なエンドレスの構造を持っているからだ。せめてスポーツや文化に、適正サイズの自己完結的な燃焼を求める他にないのである。「共生」の模索と、自己完結性への志向。そしてその泡立った状況下で、可能な限りの差異化を志向する。「共生」しつつ差異化を果たし、アイデンティファイし得る自己完結物語を貫徹する。これが、現代人の心象風景の平均的な様態である。
2014サッカーワールドカップ」より・近代スポーツは大衆の熱狂を上手に仕立てて、熱狂のうちに含まれる毒性を脱色しながら、人々を健全な躁状態に誘っていく。この気分の流れは、「勝利→興奮→歓喜」というラインによって説明できる

(2019年11月)



イメージ画像(小石川後楽園
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