【状況論的短言集】(画像はスピノザ)



* 虐めとは、身体暴力という表現様態を一つの可能性として含んだ意志的、継続的な対自我暴力である。

 最悪の虐めは、相手の自我の「否定的自己像」に襲いかかり、物語の修復の条件を砕いてしまうことである。その心理的な甚振(いたぶ)りは、対象自我の時間の殺害をもって止めとする。時間の殺害の中に、虐めの犯罪性があると言っていい。

 身体を少々壊されても、時間を守れると確信する者だけが闘争を始動する。確信できなくても、時間を守りたかったら逃げないことだ。覚悟に向かうイメージだけが貴方を救うのだ。逃げないことが闘うことだ。決定的状況での決定的なイメージラインが、生涯、貴方を救うのだ。



* 単に暴力が怖いのではない。いつ、どんなときに、どんな形で走り出すか分らないから、それは怖いのだ。「法則性なき暴力」が最悪の暴力である。それを断ち切るためには、そこに形成されている権力関係を破壊せねばならない。そのとき、貴方はテロリストになる。相手の理不尽な暴行権を壊すテロリストになる。人はどれ程覚悟してそのようなテロリストになり得るのか。

 深くて澱んだ泥濘の中を、果たして貴方は、爆弾ベストをその肉塊に貼り付けたまま、凛として突き抜けられるのか。



* 一度作り出された空気は、その空気を作った人為的な環境が変わらなければ、それが特定的なリスクを再生産する空間では、永劫に続くような何ものかになっている。常に確信的な視線の背景には、それが帰属する集団の価値観を体現する空気があるのだ。その空気が個人の内部に留まらないで「状況」を作り出し、そこで行為として表現されるとき、そこに差別が生まれるのである。

 

* 差別とは、単に感情や意思のことではない。

 人間は必ず内と外を分ける境界を作り、異なった価値観を排除する意思によって生きていく。その意思が過剰になるとき、それを偏見と言う。相手の異なった価値観を理性的に認めれば、人は恐らく、他者と上手に繋がっていくことができるだろう。然るに、過剰な感情や価値観が行為として表現されてしまえば、それらは本質的に差別行為となっていく。

 だから、身体化された差別は全て表現的行為なのである。視線もまた、しばしば最も性質(たち)の悪い差別となる。私たちは迂闊(うかつ)にも、視線の背景を覆う空気を自ら作りかねないし、或いは、そんな空気に囲繞される不幸と無縁であり続けるという保障もないのだ。



* 価値は表層にあり―― 表層を嗅ぎ分けるアンテナだけが益々シャープになって、ステージに溢れた熱気が、文明の不滅なる神話にほんの束の間、遊ばれている。



* 表層に滲み出てくることなく、滲み出させる能力の欠けたるものは、そこにどれほどのスキルの結晶がみられても、今、それは何ものにもなり得ない。奥深く沈潜し、価値が価値であるところの深みを彷徨する時間を楽しむには、我々は多忙過ぎる。動き過ぎる。移ろい過ぎる。ガードが弱過ぎる。沈黙の価値を知らな過ぎるのだ。


 
* 「生命絶対主義」というラジカルな思想の一つの到達点が、延命措置による患者の苦痛の様態であった。一切の殺処分を許容しない、倣岸なイデオロギーの快進撃は、同時に、苦痛に歪む患者の日々の不毛な継続を強いる傲慢さと同居せざるを得なかった。



* 沈黙を失い、省察を失い、恥じらい含みの偽善を失い、内側を固めていくような継続的な感情も見えにくくなってきた。多くのものが白日の下に晒されるから、取るに足らない引き込み線までもが値踏みされ、僅かに放たれた差異に面白いように反応してしまう。終わりが見えない泡立ちの中では、その僅かな差異が、何かいつも決定的な落差を示しているようにならなくなる。



* 陰翳(いんえい)の喪失と、微小な差異への拘り ―― この二つは無縁ではない。

 陰翳の喪失による、フラットでストレートな時代の造形が、薄明で出し入れしていた情念の多くを突き崩し、深々と解毒処理を施して、そこに誰の眼にも見えやすい読解ラインを無秩序に広げていくことで、安易な流れが形成されていく。そこに集合する感情には、個としての時間を開いていくことの辛さが含まれている分だけ差異に敏感になっていて、放たれた差異を埋めようとする意志が、ラインに乗ってもがくようにして流れを捕捉しにかかる。流れの中の差異が取るに足らないものでも、拘りの強さが、そこで差異感性をいつまでも安堵させないのである。



* このような時代の、そのような差異感性の辺りには、縦横にアンテナが張り巡らされていて、そこに集合する情報の雲海から垂れ流されるシャワーをいつも無造作に浴びてしまうから、人々は動かないこと、移ろわないことに我慢し難い感性を育んでいってしまうのである。

 差異を放たれるのを恐れる人々は、差異を放つ快感に必ずしも生きようとしているわけではない。差異を見つけにくい関係の中にも嵌(はま)り難く、そこに気休め程度の差異を仮構して、存在の航跡を確かめていかざるを得ないのである。人は皆、他者とほんの少し違った何者かであろうとしているに違いなのだ。



* 人々を、視覚の氾濫が囲繞(いにょう)する。

 シャワーのようなその情報の洪水に、無秩序で繋がりをもてないサウンドが雪崩れ込んできて、空気をいつも飽きさせなくしているかのようである。異種の空気で生命を繋ぐには立ち上げ切れないし、馴染んだ空気のその無秩序な変容に自我を流して、時代が運んでくれる向うに移ろっていくだけだ。

 一切を照らし出す時代の灯火の安寧に馴れ過ぎて、闇を壊したそのパワーの際限のなさに、人々は無自覚になり過ぎているのかも知れない。視覚の氾濫に終わりが来ないのだ。薄明を梳(と)かして闇を剥いでいく時代の推進力は、いよいよ圧倒的である。



* 照らして、晒(さら)して、拡げて、転がして、塞いで、削ろうとする。その照り返しの継続的な強さが、却って闇を待望させずにはおかないだろう。

 都市の其処彼処(そこかしこ)で闇がゲリラ的に蝟集(いしゅう)し、時代に削られた脆弱な自我が突進力だけを身にまとって、空気を裂き、陽光に散る。陽光が強いから翳そうとし、裂け目を開いて窪地を作り、そこに潜ろうとする。陽光の下では、益々熱射が放たれて、宴が続き、眼光だけが駆け抜ける。そこでは、刺激的なる一撃は、次の一撃までの繋ぎの役割しか持たず、この連鎖の速度が少しずつ増強されて、視覚の氾濫は微妙な差異の彩りの氾濫ともなって、いつまでも終わりの来ないゲームを捨てなくてはならないようである。動くことを止められないからである。



* 一度手に入れた価値より劣るものに下降する感覚の、その心地悪さを必要以上に学習してしまうと、人は上昇のみを目指すゲームを簡単に捨てられなくなる。このゲームは強迫的になり、エンドレスにもなるのである。自己完結感が簡単に手に入り難くなるのだ。「これでゲームオーバーだ」という認知が、次第に鈍ってくるのである。



* 捨てられず、後退できず、終えられないゲームに突き動かされて、落ち着きのない人々は愉楽を上手に消費できず、愉楽の隙間から別のアイテムに誘(いざな)われて、過剰なショッピングを重ねていく。今、自分が手にしているもの以上の価値ある何かが、どこかにある。それを手に入れなければ済まない生理が、そこにある。バスを降ろされたくない不安の澱みが、単にそれを埋めるためだけの補填に走るのだ。



* 快楽は常に、より高いレベルの快楽によって相対化されるから、どうしてもこのゲームはエンドレスになり、欲望のチェーン化は自我を却ってストレスフルにしてしまう。

 未踏の、豊饒な満足感に充ちた快楽との出会いは、それを知らなかったら、それなりに相対的安定の秩序を保持したであろう日常性に、不必要な裂け目を作るばかりか、それがまるで、魅力の乏しいフラットな時間に過ぎないことを、わざわざ自我に認知させ、自らの手で日常性を食い千切っていく秩序破壊の律動は、しばしば激甚であり、革命的ですらあるだろう。



* そのアプローチの様態は様々だが、普通の人間ならその対象への一縷(いちる)の警戒感を捨てることなく近づいて、その甘い蜜の香りがやがて脳の快楽中枢を不断に刺激してしまえば、もうその対象を擯斥(ひんせき)することが困難になるはずだ。そして人は、その対象との絶対的距離をどこかで巧みに無化してしまうだろう。距離を無化させた駆動力 ―― それを私は「快楽の落差」と呼んでいる。



* 自分が今まで味わったことのない種類の快楽と出会ってしまったとき、人はもうメロメロになっている。勿論、快楽の感情は相対的だが、少なくとも、自らが至福と信じたものから離れてまでも、自分が今手に入れた快楽の、殆ど暴力的な被浴が記憶に刻まれてしまったら、人はもうそれ以前の日常世界に戻れなくなってしまうのだ。それが、「快楽の落差」の最も怖いところなのだ。



* 快楽に落差があるから、人は欲望に自分なりの価値付けをして、その感情の稜線を昇りつめていく。「快楽の落差」が大きければ大きいほど、人がもうそれ以前の日常世界に帰れなくなってしまうのは、人の心理的文脈の自然な流れであると言ってもよい。

 厄介なのは、欲望を抑制すべき人間の自我が、そこで手に入れた快楽の被浴を脳の中枢が刺激されることで、既に肥大した欲望の文脈に少しずつ馴化してしまうことだ。

 更にもっと厄介なのは、その馴化の流れにひと通りの物語を張り付けてしまうことである。こうして人は、知らず知らずの内に欲望の無限連鎖の世界に嵌っていき、そしてその速度に容易く順応してしまうのである。この順応性は人間の文明を啓いた起動力になったが、同時に、多くの大切なものを喪失させてきた元凶でもあった。

 これほどまでに人は状況に順応し、その状況が垣間見せた欲望の対象に搦(から)め捕られてしまうのである。
 


* 人々が共同体的なものから脱し、私権の拡大的定着の流れが定まるほどに、「自分を生きること」と、「バスから降りないこと」の背反命題からのゲームの強迫度が増していき、快適であるべきはずの日常性が、少しずつ自在性を崩しがちになるとき、人々はそこに、どのような秩序を保証していくのだろうか。それこそ、最も切実な現代的テーマの一つであると、私は考えている。



* 幸福を手に入れるにも覚悟がいる。幸福が壊れたとき、幸福の大きさが不幸の大きさを決める。不幸の大きさに耐え難かったら、勢いにまかせて幸福のサイズを徒に広げないことだ。

 自我が処理し得る幸福のサイズというものがある。同時に、不幸のサイズというものもある。等身大の幸福を、継続的に確保できる者が最も強い。不幸の突発的なヒットによって崩されかかった物語の修復が、最も速やかに推移する確立が高いからである。

 どうしても壊されたくない幸福に拘泥する者は、その幸福にまとうリスクを、確実に処理し得るサイズの幸福をこそ選ぶはずだからである。幸福の選択に博打はいらないのだ。



* 過剰に演技する者がナルシズムを手放さないでいられる為には、更に過剰な演技を強迫する以外にない。
 演技する程に過剰なナルシズムだけが罰を受ける。自らを強迫して止まないナルシストは、常に起爆管を抱えた特攻戦士のようである。実際の敵は洋上になく、沸々と泡立って鎮まることがない内側にこそ潜んでいる。病者と天使を同時に装うナルシズムの異様な尖りは、声高なる進軍の果てに、死体を累々と積み上げていく。英雄への免疫が顕著に低下した時代の中でこそ、異様な尖りが月光に輝いてしまうのだ。

 ちまちまと、殆ど目立つことのないナルシズムだけが圧倒的に健全なのである。他人にからかわれて、忽ちの内に忘れられてしまうようなナルシズムの滋養をこそ大切にしたい。



* 無自覚なランナーが、無自覚な快走の果てに、無自覚なウィナーになったとき、彼らは、その快走に対しては実感的だが、ウィナーという高みを支えるシビアな把握においては未だ確信的ではない。

 その空洞に、殆ど予約されたペナルティが襲いかかる。形式的に完結した無自覚な快走から、内なる熱源が消失するや、中枢が喰われていくのだ。全きウィナーが得るべき何物も、そこにないのだ。彼らが手に入れたかったのは、「そこに、それが輝いていたが故に占有したかった」という達成感の記憶だけであった。

 占有感情への強迫によって放たれた身体もまた、快走気分の占有を記憶したかったにすぎなかった。それだけだった。自らを説明できない罰として、彼らは降りていかざるを得なかったのだ。



* ある人間が、次第に自分の行動に虚しさを覚えたとする。

 彼が基本的に自由であったなら、行動を放棄しないまでも、その行動の有効性を点検するために行動を減速させたり、一時的に中断したりするだろう。

 ところが、行動の有効性の点検という選択肢が最初から与えられていない状況下においては、行動の有効性を疑い、そこに虚しさを覚えても、行動を是認した自我が呼吸を繋ぐことを止めない限り、彼には行動の空虚な再生産という選択肢しか残されていないのである。

 このとき自我は、自らの持続的な安寧を堅持するための急拵(きゅうごしら)えの物語を作り出す。即ち、「虚しさを覚える自分が未熟なのだ。ここを突破しないと私は変われない」などという物語にギリギリに支えられて、彼は自らを規定する状況に縋りつく以外にないのである。

 彼には行動の強化のみが救済になる。
 そこにしか、彼の自我の安定の拠り所が見つからないからである。行動の強化は自我を益々擦り減らし、疲弊させていく。負の連鎖がエンドレスの様相を晒していくのである。



* Aという答えしかあり得ない状況の中で、Aという答えを表出することは身の危険を高めることを予測し得るとき、人は一体、何と答えたらいいのであろうか。ここには、人間の自我を分裂に導く最も確度の高い危険が潜む。人はここから、どのように脱出し得るのか。

 人間はこういうときに、或いは、最も残酷な存在に変貌する。

 自分以外に自分の行為を抑止し得る何ものなく、且つ眼の前に、自分に対して卑屈に振舞う下位者の自我が映るとき、Aという答えしかあり得ないのに、Aという答えを絶対に表出させない禅問答の迷路に追い詰めたり、AでもBでもCでも可能な答えの中で、いずれを選択しても、必ず不安を随伴させずにはおかない闇に閉じ込められてしまったりという心理構造をダブルバインドと呼ぶなら、それこそ、人間の人間に対する残酷の極みと言っていい。

 何故なら、相手の自我を分裂させ、それを崩壊しさる行為以上の残酷は、自我によって生きる人間世界には容易に見当たらないからだ。
 


* 「あいつを倒せ」という志で集合する共同体は、「愛」という名を被せた数多の共同体より、その「集団凝集性」においてしばしば勝る。共同の敵を持つ者の「集団凝集性」(組織がその成員を引き付ける力)は、目標に向かって内部秩序を形成する強靭さにおいて、愛し合う者同士の情感言語の脆さとは比べものにならないだろう。

 残念ながら、人工的に仮構された特定的な敵の存在それ自身が、内側を常に鍛え上げる「憎悪の共同体」こそ、何よりも最強の共同体と化してしまうのである。



* 人は皆、愛し合わなければならないという説教ほど胡散臭く、虫酸が走るものもない。現実にはありえないことだからだ。

 現実にありえないことを理念化してしまうから、そこに無理が生じる。無理な理想を追求するのは自由だが、それを倫理や宗教のフィールドで、いかにも起こり得る現象のような空気を過剰に作ってしまうと、しばしば現実が理念に引き摺られて、そこに極端な物語が分娩されることがあるから厄介なのだ。

 「愛の不毛の現代状況」とか、「都市の砂漠」とか、「暗黒の近代」、「社会の荒廃と、その閉塞状況」等々という、一点拡大の不確かな時代像によって、平気で十字軍に与することができてしまう短絡性こそ、多くの「愛の戦士」の喰えない厚顔さである。

 人が憎しみ合うことが、なぜ悪いのか。単に同盟を結ばないことによって貫徹し得る憎悪こそ、人間の高度な知恵の結晶ではないか。「憎いけど殴らない」という学習もまた、そんなスキルの一つである。「憎悪の美学」の立ち上げもまた、充分に可能なのだ。



* 闇を殺したはずの近代の其処彼処に、闇が出没して止まないようである。超快速的近代の輝きの中で、自ら潜り、地上との回廊を封鎖した上で、様々な批判に毒針を放つ快楽を止められない自我が、安直に捨てられていく。捨てられた者の氾濫の尺度が、実は精神の近代の鈍走の指数でもある。

 果てしなき欲望を追求する近代は、それに毒針を放つ者との同居を不可避としている。輝きの近代の見えない地下網に、様々な闇が根を張っているのだ。闇を制圧するだけの体力が、未だ私たちの近代には備わっていないのであろう。一切は、未知の領域に属しているのだ。その怖さこそが、光の近代が本質的に内包する厄介な事態なのである。



* 快楽を目的とする匿名者が特定他者を甚振(いたぶ)って手に入れる快楽が、自分が仕掛けた攻撃によって一定の功を奏し、そこで相手の苦吟を確認することで手に入れる満足感にしばし浸れるが、しかしここで厄介なのは、その満足感は一回的なものでしかないということだ。

 甚振ることを止めない者は、更なるレベルの満足を求めることになるので、そこにいつまでたっても、自己完結の最終的達成点が手に入らないのである。

 より手応えのある快楽を手に入れるために、その攻撃の質を高めていかざるを得ないエンドレスの構造を持ってしまうということ。それが厄介なのだ。次のより高いレベルの快楽に流れていくことで、いよいよその様態を変えていくのである。満足感というものに明瞭なゴールを持たない限り、快楽を求める人間の暴走は決して一箇所に留まることはないだろう。



* メディアは陰鬱で、不明朗な者を殆ど確信的に駆逐した。

 近代の輝きは、メディアの強力な援軍を得て、過剰な光彩を放って止まないのか。元気印の者たちの、威勢のいいマーチが茶の間に攻め込んで来るが、大抵の人たちは、マーチに乗り切れない微妙な隙間を埋め切れないでいるようにも思われる。

 エンドレスな日常の冗長さから脱出するためには、時間を苛酷に潰していくしかないと感受するかの如き、このパラドックスな現実感覚。不必要な疲労を溜めることで、マーチの海に呑み込まれ、それが伴奏する流れの中で、小器用に半睡する技巧さえも手に入れたのか。

 決して目立つことはないが、しかしそれなしには立ち行かない日常的な営為の継続性に、私たちはあまりに敬意を払うことを忘れすぎていないか。特段に明朗でもなく、旺盛な活力を見せる必要もない普通の人生の重量感こそ、多くの普通の人々に相応しい。過剰なる前向きマーチの騒々しさに対して、恰もそれが、選択的な自我戦略であるかのような読み換えによって、安易に武装解除するなかれ。



* 「単純化」、「誇張化」、「感傷化」―― この三つが、放送メディアを介して固められていく現代文化の主潮流である。

 複雑な思考回路を省き、取るに足らない情報を過剰に煽り立て、消費し切るまで情緒的なラインで垂れ流す。情報が大衆に下降する速度が早まるほど、この現象は止まらないのだ。



* 比べることは、比べられることである。比べられることによって、人は目的的に動き、より高いレベルを目指していく。これらは人の生活領域のいずれかで、大なり小なり見られるものである。

 比べ、比べられることなくして、人の進化は具現しなかった。共同体という心地よい観念は、比べ、比べられという観念が相対的に停滞していた時代の産物である。

 皆が均しく貧しかった人類史の心地良い閉塞が破られたとき、自分だけが幸福になるチャンスを与えられた者たちの大きなうねりが、後に続く者への強力なモチーフにリレーされ、産業社会の爆発的な創造を現出した。

 誰が悪いのでもない。

 眼の前に手に入りそうな快楽が近接してきたとき、人はもう動かずにはいられなくなる。昨日までの快楽と比べ、隣の者の快楽と比べ、先行者との快楽と比べ、人は近代の輝きの中で、じっとしていられなくなった。

 比べられるものの質量が大きくなればなる程、人はへとへとになっていく。それでも止められないのだ。戻れないのだ。

 恐らく、それが人間だからである。その行き着く果てに何が待っているか、人は不必要なまでに甘めの予測を立てるが、決して真剣には考えない。それもまた人間だからだ。



* 人目に触れることなく捨てられてしまう、扱いにくい情報の全てが、肝心な情報であると言えないが、人間の醜悪さを炙り出してしまうような形而上学が拒まれ、表層の気分を転がすゲームだけが踊っている。

 輝きの近代の言語世界は、これ以上、どうやって飽満的状況を維持し続けるのだろうか。明日には屑になるかもしれない情報が、間断なく私たちの日常に攻め込んでくる。私たちは臨終の言葉を、一体どうやって紡ぎ出したらいいのだろうか。



* 「電話ボックス」―― その小さな空間の中では、露出される視覚次元のプライバシーと交換し得るに足る、聴覚次元のプライバシーの価値が手に入ったのである。この目的的なプライバシーの獲得こそ、「電話ボックス」の最大の存在価値であったのだ。同時に、私権に拘泥(こうでい)する私たちのプライバシーのスタンスとの関係においても、それはまさに、頃合のバランス感覚によって保持されていたのである。



* 私たちの日常は、「携帯」の出現によって情報漬けの時間の海に漬かることになった。「携帯」の出現は、私たちの身体感覚から「距離」という観念を壊し、逆に物理的な操作感の飛躍的な増幅と反比例して、触感的な皮膚感覚を著しく磨耗させてしまったとも言えるだろう。
 


* 侵入者としての「携帯」の威力は、限定的で、特定の生活空間における異次元的な「快走」に留まらないのだ。街に出れば普通の感覚で氾濫し、鉄道車両の空間にあっても「快走」し、店舗にあっても、エレベーターに乗っても、静寂な住宅街に戻っても限りなくその「快走」を止めないで踊っている。そこに吐き出される他人の、どうでもいいプライバシーが澱みのない流れとなって、時間と空間を切り裂いていくのだ。



* 「・・・すべし」という心理的強制力が有効であった共同体社会が、今はない。

 道徳が安定した継続力を持つには、安定した感情関係を持つ他者との間に道徳的実践が要請されるような背景を持つ場合である。親子に安定した感情関係がなく、情緒的結合力が弱かったら、病に倒れた親を介護させる力は、ひとり道徳律に拠るしかない。しかしその道徳律が自立性を失ってしまったら、早晩、直接介護は破綻することになるのだ。



* 直接介護が破綻しているのに、なお道徳律の呪縛が関係を自由にさせないでいると、そこに権力関係が生まれやすくなり、この関係をいよいよ悪化させてしまうことにもなるだろう。

 介護の体裁が形式的に整っていても、介護者の内側でプールされたストレスが、被介護者に放擲される行程を開いてしまうと、無力な親は少しずつ卑屈さを曝け出していく。親の卑屈さに接した介護者は、過去の突き放された親子の関係文脈の中で鬱積した自我ストレスを、老親に向かって返報していくとき、それは既に復讐介護と言うべき何かになっている。



* この親に対して必死に対峙してきた自分の反応は、一体何だったのか。

 そこに何の価値があるのか。何か名状し難い感情が蜷局(とぐろ)を巻いて、視界に張り付く脆弱な流動体に向かって噛み付いていく。

 道徳律を捨てられない感情がそこに含まれているから、内側の矛盾が却って攻撃性を加速してしまうのだ。この関係に第三者の意志が侵入できなくなると、ここで生まれた権力関係は、密閉状況下で自己増殖を果たしていってしまうのである。

 直接介護をモラルだけで強いていく行程が垣間見せる闇は、深く静かに潜行し、その孤独な映像を都市の喧騒の隙間に炙り出す。終わりが見えない関係の澱みが、じわじわとその深みを増していくかのようだ。



* 貧しくても子供を多く産むことの利益は、「養育費」というコストを上回る何か、即ち、単に「愛情」の対象を持つことの喜びのみではなく、その対象が貴重な「労働力」となり、加えて、自らの「老後の世話」を頼むに足る存在性として、その家族関係の内に、世代間継承の不文律が予約されていたからである。

 然るに、生活に一定のゆとりを持ち、且つ、個々の私権が保証される社会の扉を開いてしまって以来、子供を持つことの利益要件から、「労働力」と「老後の世話」という二つの構成因子が消滅してしまった。

 そこで残された利益が、単に「愛情」の対象性のみになったとき、一切は「我が子に愛情をどこまで持ち得るか」という、その固有なる関係の情緒性の濃度に依拠することになったのである。

 もし何某かの形成的な因子によって、関係の情緒性の濃度が決定的に稀薄であったなら、子供を産んだことの利益は剥落し、そこに浮遊する悔いの感情を否定するための矛盾した行為が、子供を産んだ貴方の内側を執拗に甚振ることになるだろう。

 それ以外にない育児文化の黄金律が、呆気なく瓦解した現在、かつて天下無敵であったと信じたに違いない貴方は、もう自分のサイズを逸脱した、「母性」という名の決定力に縋りつけなくなってしまったのだ。



* 家族内介護の限界が露呈して、今や第三者機関への依存なしに幸福家族の延命が困難になってきた。家族の相互扶助精神の衰弱は、私権の確立の定着が確立した家族の、その構造的欠陥を浮かび上がらせているのだ。

 ここでの家族は、情緒的求心力しか生命線がない。情緒の結合力に少しでも皹(ひび)が入れば、それを埋める物語の補填なしに、一気に解体に向かう危うさを内包する。

 私たちは今、情緒という最後の砦によって、「悠久の家族」という物語に必死に縋っている。家族内扶助を、「強制的道徳力」として箍(たが)を締めていたそのコアがなし崩しになれば、情緒の消失が家族の実質的解体に至る。あれ程勤勉で家族思いであった貴方が重度の認知症者になれば、貴方の家族は自我の連続性を失った貴方を、果たしてどこまで介護しきるだろうか。

 私権の確保を絶対とする、過激なまでに豊かな我々の社会の闇の奥に、「幸福家族」の戦慄すべき脆さが見え隠れしている。
 


* 言葉が踊る。言葉が舞う。舞っているという煌(きら)びやかさの中で、言葉は自らの質量にない浸透力を見せていく。

 思えば、「救い」とか「癒し」なる言葉は、かつては、単なる気分転換のカテゴリーで処理されていたのだ。過激なまでに豊かな国の社会では、内側の皮膜に付着した滓の類まで拭き取ってくれる、格好のマニュアルが其処彼処(そこかしこ)に踊っている。それが言葉を踊らせているのだ。  



* 「この本を読んで救われた」という類の辛さなら、自分の力で何とかならなかったのか。

 「癒し」や「救い」のマニュアルまで必要とする社会の、その圧倒的な免疫力の低さが、単に気の利いた言葉を言い添えただけの情報に、過敏に反応してしまう情緒過多の風潮を作り上げている。

 言葉の舞いを先導するメディアが推進力になって、この社会に不必要なまでに刺激的で、その内実において、貧弱な表現が飛び交っている。それはしばしば濁流となって、貴方の細胞まで攻め込んできている。



* 「察知されないエゴイズム」

 これがあるために、一生食いっぱぐれないかも知れない。人に上手に取り入る能力が、モラルを傷つけない詐欺師を演じ切れてしまうからだ。

 「察知されない鈍感さ」

 これがあるために、不適切な仕草で最後まで走り抜けてしまうのかも知れない。そこに関わる自尊心も、過剰に保障されてしまうからだ。

 「晒された、寡黙なる陰鬱さ」

 これがあるために、当人の周囲には不必要な保護の空洞が作られてしまうのかも知れない。自らの内側を、ゆっくりと深々と掘り下げていく営みが価値である時代が崩れて久しいからだ。



* 初めからそれがなく、今もなく、未来もそれがないと予想されるなら、人は各々の小宇宙で等身大の幸福を享受するだろう。

 初めにそれがなかったのに、今はそれがあり、未来もあり続けるなら、人はやがてそれなしではいられなくなるだろう。

 初めからそれがあり、今も未来もそれが当然あり続けるなら、人はそれとの共存を疑うことをしないだろう。

 二十世紀の後半、先進国と言われる国々が到達したこの人類史の革命を、人々は未だ学習し切っていない。「初めからそれがあった者たち」と、「人生の途中からそれがあった者たち」との価値観の落差の大きさを、経験的に確かめることはとても難しいのだ。

 数年単位で世代間の亀裂が現出してしまうような、あまりに性急な歴史を、私たち既に作り上げてしまったようだ。



* 作り出され、動き、取りにかかる。取ったら、それを食べ尽くし、捨てていく。捨てていく頃には、作り出されるものが生まれていて、また動いた後、それを取りにかかる。

 作り出されるものは「欲望」で、動かすものが「身体」、若しくは「知的営為」で、取りにかかるものを「生活」と呼ぶ。

 食べるという消費を経て、最後には廃棄が待っているのだ。

 私たちが所属する社会では、これらが螺旋(らせん)的に循環するから、その基本的な流れは、肥大化することによってしか正常な枠組みを決して作れない。この枠組みの中枢に私たちの普通の意識が息づいていて、ここからのドロップアウトは社会そのものの脱落になる。

 そのとき、その意識は、循環型の自給経済に向かわない限り、枠組みからの様々な排除を覚悟する他にはない。労働に向かう身体は枠組みを守る意識に引っ張られて、そこに社会的関係が構築され、各々に上手に繋がっていく。「欲望資本主義」という王道の底知れぬ求心力は、人類史上の到達が示した最も具体的な表現様態であった。



* 私たちは、何もしないことが、とてつもなく不利益になると実感させるような社会を、とうとう開いてしまった。想像したことが達成されないと我慢し難いと実感させるような時代を、とうとう開いてしまった。私たちの近代の性急な速度に、誰も首輪を架けられないでいる。



* 何者でもない者が、何者でもないことに耐えられる時代の幕が降りてから、人々は何者かであることの確認なしに時代と繋がれず、その時代を降りることも儘(まま)ならず、変形の魔力に駆り立てられて、泡立ちの幻想の森に踊っている。



* 自分が何者でもないことに耐え難い時代の幕が、とうに開いてしまっている。自分以外の何者でもないことを引き受けることと、自分以上の何者かであることを幻想することの間に、埋めようがないほどの深い溝が広がってしまっていて、人はもう、何者でもなさすぎる自分を蹴飛ばし続けるしか空気を食べられなくなってしまったか。それでも空気を食べて生きていくには、日々に自分を喰い繋いでいくしかないのだろうか。

 自分は何者でもないが、何者でもない自分についての意識の主体ではある。この主体が今、ここに在り、それ以外にはありえない秩序に向かって常に動いている。この快感を、なお手放さない人だけが宇宙を実感し、ゲームを愉しめる。



* 最も倫理的な釈迦ですら、妻子を捨てたし、アヒンサー(非暴力)を貫いたガンジーですら、不良少年を殴ったし、清貧に生きた良寛ですら、村人の援助なしには生きられなかった。博愛主義のシュバイツアーは黒人差別の言辞を遺し、強靭な信仰に生きたイエスですら、「エリエリサバクタニ」と叫んで、殉教への迷いを訴えた。

 かくも倫理的だった偉人ですら、倫理的に生きることの難しさを示している。然るに、この不徹底さこそ、人間の救いである。敵を灰にするまで解体する人間の徹底した合理主義は、それを隠蔽し切れぬ脆さの前で朽ち果てた。

 脆さの自覚の中でこそ、信念や信仰が立ち寄るのだ。脆さの自覚が、束の間の輝きを放つのである。



* 「仏教の堕落」が叫ばれて久しいが、かくも豊かな社会の中で、なぜ人類救済がリアリティを持ち得るのか。葬式仏教こそ、豊かな社会での仏教のアイデンティティを示すもので、何ら恥じ入る必要は全くない。

 人々を救済したければ、自分が一番偉いと思っているに違いない他の宗教に任せればいいし、「国境なき医師団」や、「解放の神学」の職域を荒らすこともないであろう。

 豊かな国での仏教は、ただ、人の不安を少しでも鎮める役割に徹すればいい。この国で、今できることを、誇りを持って遂行すること。それが私たちの国に似合った仏教のあり方ではないのか。



* 私権の拡大的定着と相対主義の蔓延は、限りなく「絶対原理」の欺瞞性を削り取っていき、人々は誰にも侵害されることのない「私権の城砦」をひたすら守り抜くことに奔走していくことになる。だから未だ物理的共存を強要される空間や、そこでの強制力を伴ったシステム的な共同体への関わりにおいて、少しでも、そこに馴染みにくい因子が生じたら、そのシステムに身を預けていくことの息苦しさを人一倍感じることになるだろう。

 その象徴的な物理的空間が、義務教育、乃至、半義務教育的な外的強制力を随伴した学校空間である。そこに通学する児童生徒は、例外なく、そのシステムが自らに強いる規範を受容することが前提になることで、そこでの規範意識の個々の落差が露呈されるに至るのは必然的であると言えよう。
 


* 「快不快の原理」に耽溺していた生徒や、ネグレクトされた生徒にとって、システムの中では、半ば約束事でしかない規範の遵守は圧倒的に苦痛であるか、それとも、不必要なまでに桎梏(しっこく)であるに違いない。彼らは、外的環境下での秩序の馴致に対する学習をクリアしていない分だけ、秩序の緩やかな強制力を受容する能力において決定的に不足しているのである。

 学校規範が自己の生活や意識のレベルにまで擦り寄ってくれるのなら、妥協の余地が生まれるだろうが、その逆のパターンを強いられる限り、彼らの反応はいよいよ尖ったものになっていく。適応障害の状況性を内側で捕捉してしまうとき、彼らの何人かは、その「擬似共同体」から逸脱してしまう以外にないだろう。少年非行の激増や授業崩壊が深刻になって、子供たちの規範意識の顕著な低下の現象は、殆ど歯止めが利かない世界にまで踏み込んでしまっているのだ。



* 飽食と好物食いが約束された近代文明社会の生活文化の快適さの内側に、深く静かに潜航する、「自分のやりたいことだけを、特定的に選択する」というライフ感覚の自然な流れの中で、既にそれ以外の不快極まる生活感覚と完全に切れたラインが自立してしまっている。

 それぞれの応分の自我形成を安直に果たしてきた、「身体的に成人化しただけの思春期像」を、ごく普通の感覚で社会の只中に転がしていくしかない現実が、そこにある。彼らの自我には、「嫌なものと我慢してまで共存する」ことの重要さが全く学習されていないから、「好きなときに、好きなものだけを、好きなだけやり続ける」という「快不快の原理」が、合理的且つ、現実原則的な自我の獲得の内に超克されていないのである。

 

* 児童期には、「快不快の原理」で突き抜けた世界の軟弱性が、思春期に踏み込んで規範を強要する変化を見せるとき、彼らの自我はそこで戸惑い、ストレスを溜め込んで、逃避願望を膨らませてしまうだけだろう。それほどまでに規範意識を作り出せなかった少年少女たちの悲哀の根柢には、その身を預け入れていく対象のバリアの普通の障壁が、思春期を迎えた途端に彼らの未成熟な自我を囲繞する、社会的枠組みの存在それ自身の権力的な圧力としか捉えられなくなった、狭隘な自我の硬質化した心象世界が横臥(おうが)しているということではないだろうか。
 


* あらゆる分野で心地良さを充足させている「欲望自然主義」の過剰な達成は、それを作り出した者たちの、状況感性でも届き得ない辺りにまで自律的に進化し続けた挙句、気が付いてみたら、予測し難い様々な異変の兆候を炙り出してしまっていた。「温室効果」の危機が警鐘されても、天候異変による地球環境の崩れ方を正確に予知する能力を、一体、誰が持っていたというのか。

 仮に、そのような者の辛辣な指摘があったにしても、私たちは自らの家屋が床上浸水しない限り、そのことの怖さを実感しなかったであろう。同様に物質文明を作り出した者たちの苦労を知ることなく、生まれた瞬間から快適な生活に浸っていた自我が、その快適さの有り難さを全く感受することなく身体を大きくさせても、やがてその自我にヒットしてくる不快情報に対する免疫力が形成されていなければ、その快不快の落差に翻弄されるばかりになるだろう。そして「快不快の原理」を基準に流してきた脆弱なる自我にとって、結局、情動系のラインの暴走に呑み込まれるしかないのである。

 一切は自我耐性力の、その能力のリアリティの問題であるとも言えるのである。全てが未知の領域なる世界への侵入こそが、私たちの現在的状況の真の恐怖であるのかも知れないのだ。



* 一体、この国に強固なモラルで生きた時代があったか。

 規範の厳しさの多くは垂直下降の産物以外ではなかったし、私権の氾濫が現出するまでは、「世間」という名の視線の心理学が空気を決めていた。今はマスコミがモラルや意見をリードし、衰弱化しつつある「世間」という空気を補強するのだ。共同体の解体が気配りのイデオロギーを崩してしまえば、あとはもう、何でもありの文化アナキズムが、当然の如く生まれるだろう。

 確信的に共同体を壊してきた私たちの中に、未だ覚悟の足りないヒューマニストもどきが、数多、呼吸を繋いでいる。



* ルールの設定は、敗者を救うためにあると同時に、勝者をも救うのだ。戦いの場でのテン・カウントは勝敗の決着をつけると共に、スポーツの夜明けを告げる鐘でもあった。これは、坂井保之(プロ野球経営評論家)の名言である。

 死体と出会うまで闘いつづける愚を回避できたことが、どれだけ多くの勝者を救ってきたことか。スポーツの誕生は、光の近代を娯楽の中で検証して見せたともいえる。

 それにも拘らず、近年の「遺伝子ドーピング」(遺伝子治療によって筋肉を増強)の問題に象徴されるように、未知の領域をが次々に開かれていく現代科学の状況に対して、何とか追いつき、並走するだけのスポーツルールの、この寒々しさ。

 ルールに関わるあらゆる営為に対応するに相応しい、新たなルールを設けていくことが、結局、自らを救済することになる真理を学習し切るのに、私たちはもう少し無残な血を流さねばならないよのか。加えて、「ヘイゼルの悲劇」(39名の死者を出した、サポーターの乱闘事件)の例を出すまでもなく、スポーツを観る側にも最低限のルールの確立が切に求められる常識が、なお未形成なのだ。

 私たちが、人間学的に存在し得ない「最高のルール」なるものと出会うまで、数多の最低のルールを通過する辛さから、とうてい解放されない現実が、そこにある。残念ながら、一切が幻想のようにも見えるのだ。それでもなお捨ててはならない、「より良きルール」の形成努力への覚悟。同時に、「勝者をも救うルール設定」の高度な認知なしに何も始まらないという、その身体実感を広く共有することである。



* 選択肢が多い社会。それが自由社会の強みである。同時に弱みでもある。
 情報の過剰な氾濫を防ぎ切れないからだ。当然、その中には、不快な情報をも不必要なまでに含まれている。移動も多いから出会いも多い。不快な出会いの機会も増していくだろう。家族共同体の温もりの中で安定していた自己像が、流動激しい社会の中で大きく揺れ動く。評価も定まらず、リアリズムの洗礼を受けて、一気に不快情報が自我にプールされるのだ。

 自由と豊かさの代償は、ミスマッチな不快情報との遭遇機会の増大化であると言っていい。だからこそ、情報処理の合理的なスキルが求められるのだ。不快情報を上手に中和する自我の処理能力レベルこそが、人々の幸福の質を決めるのである。

 近代を快走する決め手は、「不快の中和化」の高度な技巧の達成にある。



* シネコン(複合映画館)が不潔な名画座を駆逐して、隣室の騒音を遮断するスラブ厚敷きで、インナーサッシのマンションや高級サービスアパートメントが、ハウジング・プアの広がりの中でも、木造アパートを次々に解体する。コンビニエンスとスーパーが商店街を再生不能にし、派手なホームラン合戦が、「貧打戦」という揶揄を被せた「投手戦」の醍醐味を反古にする。目立った快楽は、平凡なだけの快楽を確実に廃棄するのである。

 普通の規範を装っているに過ぎない学校に通えないのは、家庭の快楽との間に落差が大きいからでもある。「社会に出れば愉しいことが待っている」と若者に思わせた時代はとうに去り、今や、蓄熱された家庭での温もりを捨て難くなってきた。かつて、若者を早く自立させた「快楽の落差」という仕掛けは逆転し、その逆落差の故に自立の根拠が悉(ことごと)く崩された。

 現代に即した見栄えの良い「快楽の落差」こそ、数多の人々の決定的な行動原理となって、なお近代の目眩(めくるめ)く快走を深々と印象づけている。



* 豊かさは自由を求める。

 自由の濃度が深くなると、自由の実感主体は、その主体についての権利感覚が増幅し、私権のエリアの確保と保証に拘泥するようになる。私権の拡大的定着が加速的に進むのである。

 私権意識の増大は、価値相対主義のイデオロギーに流れつくのだ。価値相対主義の蔓延の中で、自我強き者は強制力への反応を、その自我に繁殖させ、自我弱き者は絶対的なるものへの精神的帰属をリサーチして止まなくなる。自らが帰属するに足らない絶対的なるものが手に入らない限り、総じて、人々の規範意識は手に入らない限り、巷間ではあまりに過剰なパフォーマンスが、其処彼処(そこかしこ)で展開される。

 こうして、一見、人々の濃密な繋がりは姿を消していき、無秩序を装った未だ馴染みにくい秩序がやがて裾野を広げていく。豊かさは必ず、秩序の革命へと至るのだ。



* 多分に懐古趣味に流れていく者たちは、本気で「共同体回帰」を望んでいる訳がない。蜜の味の一切をかなぐり捨ててまで、その者たちが「古き良き時代」への原点回帰を志向しているとは到底考えられないのである。

 偶(たま)さか甘いものを食べ過ぎて、それを摂取することを悔いたとしても、特段に命の別状がない限り、「決して甘いものは喰わない」と嗜好転換する決意を固めたつもりの、件(くだん)の者たちの観念の砦が、一片の感傷を入り込ませないという精神武装によって、時空を突き抜ける強靭さを持ち得るとは、私にはとても思えないのだ。

 なぜなら、私たちは殆ど確信的に、「近代」が包摂する様々な利器や快楽を勝ち取ってきたのであり、そして半ば暗黙裡に「共同体社会」を破壊してきたのである。自らが壊してきたものの中に、単にノスタルジックな喪失感覚を蘇生させるような離れ難さを覚える何かが含まれていたとしても、せいぜい、そこで私たちが為し得るのは、その上辺だけの装飾を自分たちの暮らしや観念に接木(つぎき)することでしかないだろう。

 それは恐らく、自己欺瞞以外の何ものでもないのだ。



* 甘いものを散々摂取してきた私たちができ得るのは、明日に繋がる「今日」という時間を、どれほど丁寧に生きていけるかというその一点のみであって、それ以外ではない。私たちはそこに辿り着きたいとどこかで思っていた場所に遂に逢着したのであり、その辿り着いた場所を壊してまで戻りたい場所があるはずがないのである。

 仮にそのような者がいたとしたならば、その者は決して、私たちが辿り着いたこの場所で心地良く共存している訳がないのだ。だから、奇麗事で塗りたくった中身のない言辞を吐き散らすのは、もう止めた方がいい。私たちは常にどこかで愚かであり、醜悪であり、あまりに不完全なるホモサピエンスでしかないのである。
 


* 東大を出た人が、自分を知らない人に自分を説明するときに、その学歴について全く言及せずに済ましたら、却って不自然に見られる空気が未だ残っている。

 自分が或る一定の能力をもつことを示す有効なカード、それが学歴である。そのカードを使うことによって得るものが、それを使うことによって失うものの大きさを圧倒的に上回っていると信じられるから、それは有効なのである。

 このカードの直接効果は差別化の満足感であり、間接効果は自己宣伝のコストの節減であり、膨らませた自己イメージを丸ごと売られる様々な経済効果である。社会に出てから十年程の戦線下で、このカードを最も有効に使えなかった者には、このカードの重しが人格を蝕んでいくというリバウンドも待っている。カードの取得者にも覚悟が必要なのである。



* スポーツは純粋で美しく、且つ、感動的であるという手強い幻想は、それに熱く関わる人々に届けられる名状し難き心地良さと、決して無縁ではない。この幻想のお陰で、世のスポーツマンの多くは、人格セールスのコストを削減できた分だけ、イメージ定着率の速度は群を抜くに違いない。

 十九世紀の国際登山レースで、下にいるイタリア隊めがけて岩を落としたクライマーの話を信じないのは自由だが、スポーツマンの感動性の否定をも描いた、「炎のランナー」(ヒュー・ハドソン監督)というイギリス映画のリアリティは必見ものだった。スポ根物語も、友情の迸(ほとばし)る輝きもここには何もなく、ただスポーツというステージで、人生を切り取る若者の息吹が記録されていただけだ。それ故にこそ、映画は新鮮な感動を生んだが、当然の如く、不入りだった。以来、アンチ感動のスポーツ映画は滅多に見ない。



* かつて、某民放に長寿の人気番組があった。歴史上の人物を取り上げて、泣く子も黙る英雄に仕立て上げる。どんな人間にもある筈の人格的欠陥に言及するときでも、不幸な環境との脈絡の中で特定的に拾い上げていくから、最後は、女性ゲストの涙と、思い入れたっぷりのナレーションでまとめてしまうのだ。強引に感動篇を放ち続けることに、何か特別の使命感を背負っている者のように、恣意的に他人の人生を切り取って、視聴者に感動の共有を迫っていく。

 この程度で感動を呼べると考えているかのような無邪気な感覚に言葉を喪うが、近年著しい、表文化の「善転がし」の氾濫に赤面する日々が続いている。盗聴、告発、強迫等の裏文化から「善殺し」もまた止まらない。善を巡ってのテロルや闇討ちは、己を隠さなくなった善行者の無邪気な振舞いへの強烈なリバウンドになって、喚起し続けるのか。



* なぜこの国では、人間を描くときに善意二元論で安直に流してしまうのか。

 凡ての感動篇は「神の如き心を持つ者」の英雄伝説となり、それに抗うデーモンは英雄を引き立てるためのキャラクター以外の者にシフトできず、つまる所、おしん、金八、水戸黄門のラインで多くが処理されていく。

 ドラマの大半が束の間の娯楽であって、決して人間の複雑さを掘り下げていく深みには、当然の如く達し得ない。人間学の履修となる筈の、ある種の映画文化は極端に敬遠されて、印象のけばけばしさが空気をリードする時代の幕は中々下りないのだ。

 表文化が不断に毒素を中和してしまうから、難解殺しの革命は、一見、含みを持たせた感傷のベールに包まれて、世界をより確実にフラットなものに仕上げていく。



* 世界は既に貴方なしで動いていた。世界は今も貴方なしで動いている。世界はもう貴方なしに動いていく。貴方だけが世界なしに動いていけない。貴方だけが貴方なしに動いていけない。


 
* 宇宙は、意志なしに創造されてしまったのだ。
 世界は、貴方なしに動いてしまっているのだ。

 貴方もまた、決意なしに飛び出してしまったのだ。そして世界はまた、貴方なしに化け続けているのだ。宇宙もまた、貴方なしに壊れていくかも知れないのだ。

 貴方は世界なしに生きられるか。宇宙なしに呼吸を繋げるか。歌えるか。踊れるか。その理不尽を堪えられるか。そこを突き抜けられるか。。

 貴方なしで平気で動く世界を壊さずにいられたら、貴方は既に、固有の律動を手に入れつつあるかも知れないのだ。そこまで行けるか。そこまで潜り込めるか。



* 世界を覆う混迷や、不安の発生源の一つに、時代像の不確かな彷徨と、そこに根ざした様々な規範や幻想の剥落という現象がある。

 中高年の多くが通勤電車の携帯電話の会話に違和感を覚えるのは、知りたくもない他者のプライバシーが侵入することに、未だ馴染んでいないからであり、「物理的連帯感」によって成った「車内文化」の幻想が壊れることで、過去との繋がりが切られることに耐え難いからである。

 人は決してあるがままの世界に生きているのではなく、その世界を様々に解釈して、時代の加工を重ねながら、皆、自分なりに切り取って生きているのである。変化の幅と速度が大きいために、人々の解釈の変更が定まらず、秩序なしに落ち着けない感性の主には、今や、手頃な「消費としての癒し」だけが救いのコードになっている。

 百万円を払えば、クルーズ船で南極観光が容易に手に入る時代が置き去りにするのは、サムシンググレ-ト(自然の偉大な力)を消費した後に、自らが覚悟なくして降りて行けない「エンドレスなる日常性」の、その寒々とした風景であるのか。



* どうも私たちは、過剰な視覚文化の中で想像力を貧弱にさせた結果、様々な意味での距離感を失ってしまったらしい。環境や状況における自分のサイズが測定できなくなって、正確な自己像を描けなくなっているのだ。だから、いつまでたっても、等身大の生き方に逢着できないのである。

 近代文明社会に呼吸する私たちは、その文明が必然的にもたらした過剰な快楽と塵芥(じんかい)の中に、せめて自分に見合った日常性を構築するしかないのだ。

 私たちはこのリスキーだが、しかし、快楽の種子が存分に詰まっている社会に呼吸する。これはもう避けようがない。いつでも私たちは、「いま」と「ここ」に生きていて、これも避けようがない。避けようがない私たちの運命は、多分、人類史の運命そのものだろう。散々甘いものを摂取して肥満になった責任を、社会に押し付けるのは止めたほうがいい。文明の恩恵に素直に感謝しつつ、相応の覚悟をもって時代と付き合っていくしかないのである。



* 性急な現代人は曖昧さと共存することを忌避する傾向が強いため、常に分りやすく、誰の眼にも見えやすい飛躍的な結論に、事態の因果関係の軟着点を求める短絡性を往々にして晒していると思われる。そこに、「単純化の時代」の危うい陥穽が潜んでいるのである。仮説の検証の難しさを認知する合理的な知性こそが、切に求められる所以なのだ。

 「社会が悪い」、「今の若者は・・・」という常套フレーズが、人類史を貫流させてきた現象の滑稽さを、私は今更のように感受する次第である。

 全く誤謬のない完璧なシステムを、当該社会が具備させることが困難なのは、人間が不完全な知的生命体であるからだ。

 とりわけ、近代以降の歴史が直面するテーマが、いつでも「未知の領域」への開拓と果敢な突破という、厄介な事態を背負っているので、より複雑で、分業化した社会に呼吸するハイパー近代の現実の中で、人々が事態の情報処理を「単純化」させようとする心理は決してパラドックスなどではないのである。寧ろ、そういう厄介な時代であるが故に、常に飽和点に達しつつある人々のストレスを、違和感なく吸収し得る簡便な情報処理の方法論として、より「単純化」させようとする心理が自然裡に形成されたとしても可笑しくないのだ。だから私たちは安直に、この陥穽に搦(から)め捕られてはならないのである。



* 都市生活者が身近な距離に住む者の不幸に鈍感でいられるのは、その者との心理的、且つ、生活的な距離感が隔たっているからである。そして、そのことによって他人の不幸が自分の不幸に直結しないという現実、これが何より重要なのだ。

 同時にこのことは、私たちがより豊かな生活と私権の拡充を求めて、半ば確信的に壊してきた村落共同体の社会において、その成員が他者の不幸の現実に寄り添うことができたのは、まさに他者の不幸が自分の不幸に直結してしまうからであることを示している。だから人々は、皆優しかったのであり、過剰なまでに他人のプライバシーの中に侵入してきたのである。

 この社会が今、もうこの国では殆ど絶え絶えになっているということ、その認知こそがここでは重要なのだ。だから都市生活者が常に冷淡であるという把握は、事態の本質を無視する極めて乱暴な議論という外にない。


 
* 均しく貧しかった時代の終焉を告げる象徴として、人とほんの少しの差をつけることに人々が怒涛のように雪崩れ込んだ、この国の教育加熱現象があったのは印象深いところである。

 思えば、私たちが否定的なニュアンス含みで使用する「学歴社会」という概念は、実の所、能力以外で人を差別する社会を克服する一つの達成点でもあった事実を無視するわけにはいかないであろう。教育加熱現象は、そんな社会が生み出した一種必然的な結果でもあったということだ。



* 相手を見くびる心は、結局、自己を冷厳に相対化する能力の欠如に由来するということだ。現実の悲惨な展開の中で、闘争心の持続が弱く、勝気(強気ではなく、そこに濃密に見栄が媒介し、知人の前で単に恥を晒したくない感情)なだけの民族は負け方にも格好をつけようとするので、一時的に相手から恐れられ、それが却って不幸を増幅させるのである。



* 勝気の強がりは、実は自壊感覚の否定の自己確認である。

 強がりの奥に広がる「喪失のペシミズム」が、遂に玉砕戦という禁じ手の封印を解く。「砕けて散る」ことは、早く楽になる戦術であるばかりか、格好も付けられる。これは相手を畏怖させる絶大の効果を持つばかりか、味方を奮起させる。恐らく、この味方に対する見栄こそが、玉砕戦の心理のコアにあるということだ。



* 子供が、大人または大人社会によって、自分の意思とは無縁な辺りで遺棄されるような苛烈な環境に置かれていて、その子供の現在的なキャパシティを遥かに越える適応を、彼らを囲繞する環境から強いられたとき、その子供が自分を理不尽な状況下に置かれた現実を、邪悪、且つ否定的な感覚で、その幼い自我の内に把握することによって、その子供が、これまでの負性の関係史を反転攻勢させる意志に繋げる薄明の文脈を身体化するということ。

 それは、幼い自我の明瞭な大人、または大人社会への異議申し立てであり、しばしば、激越な行動を随伴することで、一見、「子供VS.大人・大人社会」という短絡的な関係構図の内に、「聖なる子供十字軍」の進軍が発動されて、画面一杯に、その高らかな雄叫びや浮薄なアジテーションが、多分に感傷含みで刻まれていくであろう。

 私は大枠において、このような溢れ返るような映像表現の類の作品を、「聖なる子供十字軍」の、殆ど遊戯的なコミック映像群と呼んでいる。近年、この類の映像群が巷に氾濫し、そこで作り出された「状況性」を引っ張っているのは、紛う方なく、浮薄なる「モラル」のみで一切を語って止まない、「情感系映像の過剰なナルシズム」の暴走以外ではないであろう。



* 「閉塞感」―― 私が最も厭悪(えんお)する言葉の一つである。

 人々が「閉塞感」と言うとき、それは様々な情報の洪水の包囲網にあって、自らの意志的決断による人生の切り拓きを、能動的に向えない脆弱なメンタリティの言い訳であるか、それとも、明日のパンの保障がないギリギリの生活環境とは無縁に生きてきた者たちの、それぞれのアイデンティティの欠如感覚を言い換えた、安直なる概念に過ぎないのである。

 動くべきときに動かず、走るべきときに走らず、どこかで何となく浮遊しているような気分の様態を、私たちは感覚的に、「閉塞感」と呼んでいるだけなのだ。



* 現代マスメディアの目に余る過剰さ―― 私はそれを「特定他者の消費の構造」と呼ぶ。それは私流に言えば、「三つの過剰、一つの安心」という言葉に要約されるものである。

 まず、マスメディアがバッシングの対象者(=特定他者)を、その様々な情報網(視聴者からの内部告発を含む)を駆使して発見するか、または後発のハンターたちがメディアスクラムを組んで、既に話題となった対象者に対して、身勝手な自己基準に則って襲い掛かっていく。

 そこで得た末梢的な情報を束ねて、それをスクープを仕立てるべく、集中的、印象的に情報誘導する。そして視聴者が不断に求める消費の需要に応えるべく、それらを毒気含みで選択的に流していく。そこで流された情報を、流した者の意に沿うようかのにして視聴者が受容し、フォローしていくのである。ある種のモラルパニックが形成されていくのだ。

 そして標的にされた特定他者は、その過剰な攻勢に、多くは自衛網を張っていくことで両者間は緊張し、訴訟騒ぎに発展する事態をも招来する。攻勢をかける者たちはそれでは収まらず、しばしば泥沼の闘争を常態化することにもなる。

 つまりこれは、「負の自己完結」(攻撃の対象者が土下座するまで続く、本質的には対自我暴力のことで、私の造語)の構造と把握できるものであるが故に、ここに何らかの形でアクセスした人々には、特定他者が「安心」を供与してくれなければバッシングに終わりは来ないのである。



* 大衆消費社会は、絶えず人々のストレス解消の標的になり得る「特定他者」を作り出して、その対象となった人物や集団を裸にして、存分に消費せざるを得ない構造性を内側に持っているようである。

 そこでの裸のされ方には、共通の文脈がある。

 まず彼らの履歴の中で、彼らが如何に「悪」であったかということが、周囲の者の回顧を通して語られる。「善良」なるイメージを初めから被せられた人々の回顧によって、被疑者たちのキャラクターに特定のイメージを持たせていくのだ。恐らく、公判の中で重要視されることもない、「善良市民」のテレビ用コメントがリフレーンされることで、視聴者の被疑者に対する人間観が固まっていくのである。

 そして第二に、被疑者がその犯罪に至るまで、いかに良い思いをしてきたかということが、扇情的メディアを介して繰り返し語られていく。そのことで、普通の水準のメディアリテラシーを構築し得ない人々の憎悪感情が、いよいよ増幅されるのは言うまでもないであろう。

 そして第三に、例えば、テレビのコメンテーターと称する浮薄な連中が、事件への情緒含みの反応を連射していくことで、事件全体を一つの方向性を持ったイメージに仕上げていくのである。

 「被害者にも人権がある」

 これは、彼らの常套句の一つ。

 実はこんな当たり前の、言わずもがなのフレーズを表出していく以外に彼らの存在価値はないと言っていい。このような表出こそ、大衆消費社会が事件を括っていくときの、もう一つの自己完結点になるということだ。

 人々は「安心」を得ることで、消費を完了すると同時に、裁きの快楽も手に入れたいのだ。本当は呆れるほど長い時間をかけなければ見えてこない本質的な何かがあるかも知れないのに、公判の緒に就く遥か以前に事件を括り、性急な自己完結を果たそうとするかのように見えるのは、事件そのものが消費の対象になっているからである。

 

* 「12人の怒れる男」(シドニー・ルメット監督)という有名な作品がある。

 一人の強靭な意志と勇気と判断力を持った男がいて、その周りに11人の個性的だが、しかし、決定的判断力と確固たる信念による行動力に些か欠如した、言ってみれば、人並みの能力と感情の継続性を保有するレベルの者たちがいた。その中には、理屈に偏向する者や、感情や経験に大きく振れていく者もいたが、しかし決定的局面では、決定的判断力を示した一人の男の、その一貫した主張のうちに吸収されてしまう継続力の脆弱さを、まるで敗者の如く露呈してしまったのである。

 しかしよくよく考えてみれば、11人の者たちが示した人間的な思考や感情こそが、通常の生活次元での表現であったと言っていい。なぜならば、状況に応じて振れていくのが人間であり、その状況が展開した変化のうちに真実が見えてくれば、その真実に対して肯定的に反応していくのが、人間の平均的な行動の様態であると言えるからだ。

 従って、この映画は優れた傑作であることは否めないが、しかし一人の「平凡」な顔をしたスーパーマンによって、極めて困難な空気を決定的に洗浄させてしまった作品として、ハリウッド好みの英雄譚の範疇に収斂されてしまったのである。それは、常に強い指導者を希求して止まない、アメリカという特殊な文化風土が生み出したヒーロー譚と言って良かった。裏返せば、アメリカという、多くの民族を束ねる帝国的な国家に住む者たちが、そのようなヒーローを必要とせざるを得ない強面(こわもて)の過剰さを、いつもどこかで抱えていることを物語っているとも言えるのだ。



* 「自我が精神的、身体的次元において、統御可能な範囲内にある様態」―― 私はそれを「人間らしさ」と呼ぶ。

 例えば、耐え難いほどの肉体的苦痛が継続するとき、間違いなく自我は悲鳴を上げ、その苦痛の緩和を性急に求める。しかし、その緩和が得られないとき、その自我は確実に抑制力を失い、破綻の危機を迎えるだろう。或いは、身体の四肢麻痺状態が、その身体の死に及ぶまで永久に続くことが回避できないとき、その患者は自分の身体の介助を他者に絶対依存しない限りその生存の保障はない。

 従ってその患者は、自らの身体の清拭を他者に依存するばかりか、排泄の全面的な介助をも求めざるを得ない。カテーテルによる排尿を世話してもらったり、糞便の処理まで依存することになるのだ。例えそこに、相手の善意を感じ取ることができたとしても、「絶対依存」とも言える、その現存在性を何十年もの間継続させてきて、機能を失った殆ど別の物体と化した自己の身体に一貫して馴染むことができず、更にその自我が、それ以前から作ってきた自己像との矛盾を克服できないとき、人はそこに、自らの人格としての尊厳を受容することが可能だろうか。

 「人間らしさ」の喪失とは、以上の例で明瞭である。

 即ちそれは、自我が自らの現存在性と折り合うことができない状態のことであり、まさに、その折り合いのレベルこそが人間の尊厳の度合いであると言っていい。私たちが人間の尊厳について定義するとき、どうしてもそこに抽象的なニュアンスが含まれてしまうのは、個々の尊厳観が微妙に異なり、極めてその相対度が高いからである。そこにこそ、尊厳死の問題の難しさと深淵さがあるのだ。

 

* 世界一の長寿国という建前の誇りの陰に、他者の介護なくして生存できない弱者なる者たちが無秩序に、奥深くまで散らばっている。

 彼らにとって決定的なのは、介護する者の手の温もりとその眼差しの行方である。誰によって介護されたかではなく、介護する者の人格と、どのような心理的共存を可能にしたかということ、それ以外ではないのだ。相手の温もりと眼差しの評価は、一人、弱者の独断と偏見のうちにある。この我が儘だけが弱者に与えられた特権的権力である。

 然るに、この「疾病利得」という権力を無闇に行使する弱者の運命は、先が見えている。張子の虎の権力者は、合法的に遺棄される運命を免れないのだ。だから利口な弱者は幻想の権力を小出しにするか、或いは、それを垣間見せるだけで何とか精神的優位を確かめようとする。この半ば潜在的優位感だけが、自らの絶大なるハンデに拮抗するのだ。ここで手に入れた関係幻想が何某かの快感を随伴してきて、不快なるものを駆逐できれば、幻想の崩壊の少なからぬ防波堤にはなるだろう。



* フィリップ・アリエスの「子供の誕生」などの著作に詳しいが、18世紀のブルジョア家庭から子供を可愛いがる風習が生れ、余剰農産物を獲得した余裕から、親にとって子供は情緒的満足の対象となっていく。因みに、「エミール」の著作で名高いルソーは、自分の5人の子供を全て施設に捨てたという事実があり、「告白」に詳しい。これがフランス革命前のヨーロッパ社会の一般的風景だった

 歴史上はじめて、「子供」が普遍的に「発見」されたのである。「子供」の発見は、同時に、「青年」や「女性」の発見でもあり、「少年期」や「青春時代」の誕生でもあった。

 木村尚三郎(「家族の時代」)によると、「女性」が発見されたのもこの近代社会の過程をを通してである。それまで女性は、少々力の弱い大人であり、中世では、夫の代わりに相手貴族と法廷決闘する権利を持っていたのである。

 一切は近代社会が変容させていく。近代になって、女性と子供は男により保護されねばならない存在とされ、むしろ社会から除外されていった。(ナポレオン法典では、女は無能力とされ、夫の家長権が確立する。女性の無能力制度の確立である)

 「青年」や「女性」の発見は、同時に「恋愛」の誕生を告げたとも言える。青春期に愛を育み、遂に結婚に至るという西欧型の「恋愛物語」というものが近代の産物ということなのだ。例えそこに時代の制約があったとしても、ブルジョアジーにとって近代家族とは、恋愛結婚を経てゴールインしたカップルが、そのまま恋愛物語を平行移動させた結果創出された心地よき小宇宙だから、最初から「過剰なる情緒性」を同伴させているのである。

 このカップルに子供が産まれるや、彼らの「過剰なる情緒性」は子供に流れていく。近代家族を特徴づける核家族は、丸ごと情緒性に満たされているのだ。核家族としての近代家族が、愛情原則によって貫流されているのは、その本質が情緒的共同体として機能しているからである。「過剰なる情緒性」――― これこそが、近代家族の求心力であるからだ。



* 近代社会は私たち人間に、ペット犬を飼う経済的余裕とその適正飼育のノウハウを保障してくれてた代償として、一部の犬を自然の法則から解放し、人間が保護しなければ存在すら不可能なまでに人工化してしまった。

 これをズー・セオリーと言うが、ペット犬とはズー・セオリーの一つの逢着点である。しかし驚くに及ばない。近代社会のズー・セオリーは、対人間への支配戦略において完成をみるのである。アメリカの旧信託統治領への食糧管理戦略は、ズー・セオリーの極点である。聖書にも書いてあるそうだ。人を支配したければ、食糧を与えるに限ると。



* 「鳥は生を名づけない ただ動いているだけだ 鳥は死を名づけない ただ動かなくなるだけだ」―― これは、谷川俊太郎の有名な詩の一節だ。

 鳥や他の動物がただ動いているだけでないことは、「キツネさんキツネさん理論」(餌を求めて雛が親を恫喝)や、ザハヴィの「ハンディキャップ理論」(捕食を断念させるようなパフォーマンスをすること)などによって否定されるだろうが、「死を知らない」ということだけは否定しようがない。なぜか。動物は自我を持たないからだ。

 自我とは、極言すれば、「死」の認識なのだ。これは人間とって不幸な事態でもある。なぜなら「死」の認識によって、「死」への恐れが生じ、過剰なほど卑屈な態度を晒し、且つ、その振舞いを目撃する羽目になったからである。

 「死」を発見した最初の人類が、あのグロテスクなネアンデルタール人であるという点に関しては異論がなさそうだ。イラクのシャニダール遺跡から出土した埋葬遺跡は、彼らが明らかに「死」を意識した最初の人類であることを物語るだろう。彼らは友人や親や子の死体を埋葬し、しかもタチオアイなどの花を添えることで、その死を悼んでいるのである。

 驚くべきことは、この遺跡から身体障害者と思われる仲間の埋葬も確認されているのだ。これは人間の、人間に対する哀感や共感の感情が既に発生していたことを検証するだろう。即ちこの遺跡は、人類に自我の誕生を告げる決定的な遺跡と言えるかも知れないのである。

 恐らく、「適応度最大化の戦略」(絶やすことなく、多くの子孫を残すこと)に失敗したであろう彼らは、私たち人類の直接の祖先ではないが、彼らが肥大化させた脳とほぼ同質の大脳新皮質を持つ私たちホモサピエンスは、その極端に肥大させた脳によって、超文明社会を構築するに至った。一切は、私たち自我の為せる技なのだ。

 岸田秀が言うように、人間にこのような「自我拡大衝動」があるとすれば、私たちの未来は、肥大しすぎた脳を作り上げてしまったために、一歩ずつ絶滅に近付いているのかも知れないのである。



* 人間のDNAと99%の類似を示すチンパンジーですら、どうも「死」を認識できないようなのだ。

 ある母親チンパンジーは自分の子が死んだとき、いつまでも我が子の死骸を抱いて移動していたという報告がある。これは我が子の死を悼んだ母子の情愛を示すというよりも、共存によって生じた愛着によって、我が子の「死」を認識できずに、方向性を持てない振舞いを継続させていると考えた方がいいかも知れない。なぜなら、仲間の死に対して全く何の反応もしないという多くの報告が、ジェーン・グドール(イギリスの動物行動学者)らによって示されているからだ。人間に最も近いと言われるボノボですら、自我の痕跡が認められないのである。

 人間だけが、「死の文化」を持つのだ。

 幸島のニホンザルのイモ洗い文化や、グドールが報告したチンパンジーのシロアリ釣り文化などを、文化のカテゴリーに含めねばならないだろうが、それでも人間の文化と、それ以外の霊長類の文化は厳然と分けられよう。人間の文化とは、ある種の「自我の拡大衝動」による極めつけの観念装置であると考える外はないからだ。



* 子供が大人になるための特殊な時間を用意してくれた近代社会は、「国民国家」の社会でもあった。資本主義経済の登場によって、人と物の移動を制限する必要から生まれたこの社会は、国家の権力が及ぶエリアに「国境」という名のボーダーラインを引いて、その域内に住む人々を「国民」と命名した。当然の如く、「富国強兵」を目指したこの「国民国家」は、「主権」、「領土」と共に自らの拠って立つ基盤を構成する、自国の「国民」に対する外的強制力を必然化した。

 子供は一日でも早く「国民」に育てねばならないのだ。ここに学校教育が誕生したのである。「国民国家」の、この外的強制力の中で「青春期」が分娩されたと言っていい。

 その特定的な時間の中で、この「国民国家」は、いつか「国民」に成長するであろう子供たちに、文学などに親しむ一定程度の時間を許容したのである。「シュトルム・ウント・ドラング」(ゲーテに代表される、18世紀後半のドイツの革新的文学運動)とは、このような国家の許容範囲の内側に開いた「青春」誕生のモニュメントであったのだ。



* 青春期を生み出した「国民国家」そのものの変貌 ―― 「国民国家」にアイデンティティを与えた資本主義と国境ラインが、極めてシンボリックでドラスチックな「20世紀的現象」であった、「理想国家としての社会主義」の事実上の消滅化によってボーダーレス化し、冷戦の終結とあいまって加速的な国際化が止まらなくなった。

 加えて、先進諸国の経済成長が生産力の余剰を生み、「青春期」から外的強制力を完全に払拭してしまったのだ。長期に渡る不必要なまでのモラトリアムの許容の中で、私たち大人は、子供一般に対して、「教育」という名の強制力によってしか、今や「青春期」の中枢的な発達課題としての、彼らの「自我の確立運動」を充分にフォローできない現実がここにある。



* 国家的・文化的強制力を失った近代社会は、子供たちに、「自分のために勉強しろ」としか言えなくなっているのだ。このとき、「自分のためならやらなくてもいい」という類の、子供の我が儘なトリックに反論できない大人が多く存在するほどに、もはや教育という名の文化的強制力を持たなくなってしまったのである。

 子供の自我は大人の自我に組み換えられねばならないという当然過ぎるほどの理屈に、「どうして?」という大人が出現する近代社会とは一体何なのか。

 「子供の自由」に対する大人社会の、その拠って立つ倫理的混乱が極まってしまったのだ。子供と大人の相違は、何よりも「自己決定権」を持ち得るか否かという点にあり、そこには、何ら情緒的な解釈など入り込む余地などないのである。これが私たち民主社会の、一つの毅然としたルールでなければならない。子供と大人は享受する権利が異なるという厳然たる事実を認めない限り、子供の我が儘な暴走を制約する、一切の法的根拠が済し崩しにされてしまうのだ。現代社会の混乱は、このあまりに当然過ぎる文脈の共有の顕著な劣化によって惹起されているのである。 
 


* 子供たちの規範意識の目立った劣化が、それでなくともアナーキーな空間である「学級」という名の教育現場において顕在化したとき、彼らと「教育」的に対峙するべき教諭たちの尻ごみを批判するのは安直過ぎないか。教諭たちが抱える課題の艱難差の根底には、まさにアナーキーな空間である「学級」の問題点 ―― それをドイルは、生徒の行動の「同時性」、「多様性」、「即時性」、そして「予測困難性」のうちに集中的に現われていると説明した。学級運営の危機が、恐らく、現代の先進国の教育状況の崩壊のシビアな現実を検証してしまっているのだ。



* 一貫してこの国には、若者たちの前に立ちはだかるべき「大人たちの不在」の問題を抱えているという、由々しき現実がある。

 それでも均しく貧しかった時代下には、その時代が要請した分だけの自我耐性力が存在した。その点においてのみ、恐らくレトロ嗜癖の人たちは、高度成長下の変容のダイナミズムに思いを馳せているに違いない。今にも倒れそうな長屋住まいを強いられていた私には、「昔の懐かしさ」を回顧する一切の情感系の心理文脈が存在しないのだ。

 私の周囲には、その時代が招来した風向きに合わせるようにして、そこそこ働き者だが、時代が要請した分だけの空気に乗って生きていた大人たちが、結構、元気に呼吸を繋いでいた。そしてそんな大人たちの生活圏には、相応の自我耐性力を持った多くの子供たちの闊達(かったつ)な存在があった。だから大人たちは、特段に彼らの越え難き壁となって、その小さな我儘を粉砕するに足るほどの存在性を、敢えて身体表現する必要がなかったのだ。

 今や、それなりに豊饒な豊かさを獲得したこの国にあって、ただ一方的に慰撫(いぶ)され、把握され続けてきた子供たちが、その結果と言うべきか、多くのケースで、免疫抵抗力の不足なスモールサイズ化した自我によって、その自我に必要な分だけの呼吸を繋いでいる。

 ところが、その自我が思春期を越えてもなお、その自我の前に、大人が大人であるところの拠って立つ存在感によって立ちはだかれない現実を、殆ど常態化しているように見える。この国の不幸の中枢に近い辺りで、なお「大人たちの不在」の延長という重々しい債務が、緩やかに、しかし確実に累積化されていく時間の中に、その澱みの濃度をいよいよ深めているのだ。



* 人々は生活と意識のレベルが近接すればするほど、他者の存在を無視できなくなっていく。

 均しく貧しかった時代には、他人の不幸が自分の不幸に繋がるリスクが高いので、内部強制的に相互扶助の意識が、殆ど自然裡に形成されていたであろう、「共同体の絶対的秩序」の原理が有効に作動していたと思われるが、この社会が安楽死していく流れの中で逢着した「総中流化社会」にあって、「他者の不幸が自分の不幸に繋がらない」都市化社会の坩堝(るつぼ)の中で、メディアの過剰な情報の後押しの加速作用をも介することで、他者との差異化感情が一気に開かれていくに至ったのではないか。そこでは、却って「不平等な豊かさ」を、より実感する社会を招来させてしまったに違いない。

 「総中流化社会」という名の平等化の実現は、新たなる不平等化を分娩する事態を出来させるだろう。この国では、「バスに乗り遅れることの恐怖感と、そこから降りることの不安感」を過敏に張り付けたかのような自我の、言わば、文化依存症候群(その国に特有の精神現象)的な振れ方によって、そこにある種の典型的な、「幸福競争」とも呼ぶべき社会現象を現出させてしまったのではないか。高度成長期の時代の話である。



* 錦鯉の外見美を守るために、平気で水生昆虫を食べさせる環境擁護論も可笑しいが、「ハエや蚊のいない、トンボや蝶の舞う町づくり」をアピールするナチュラリズムはもっと可笑しい。極めつけは、ある県の学校緑化コンクールで優秀賞に選ばれた小学校が、校庭美化のため夜間に除草剤を散布したというエピソード。奥井一満の、「五分の魂」という本で紹介された事例だ。

 本来の自然である野草を引き抜き、外見的に美しいものだけを大切にする私たちの欺瞞的な自然観が、ここにある。特定の動物への保護に走りやすい「動物愛護」の軽薄な情感性と、生態学的な多様性を維持し、サステイナブル・ディベロップメント(持続可能な開発)の観点に立って、その価値を増大させるという思想を視野に入れた「自然保護」との相違は決定的であるだろう。



* 近代社会では、人々がバラバラにされ、「幸福家族」という名の「小宇宙」くらいにしか、拠って立つ自我の強固な安定を見出しにくい状況になっている。

 それは、近代家族が情緒的結合力を強化する方向にシフトしていった一つの重要な因子である。

 差異化がエンドレスに開かれ、差別が陰湿化したのも、人々の自我の安定の根拠を自らのうちに収斂し切れない近代社会の、その本質的構造の故である。

 かつての村落共同体の「村八分」(?)の目的が、共同体社会に呼吸を繋ぐ人々の自我の安定が、「村八分」の対象者に対する、「差別的排除」による優越感情の確認などという文脈にはなく、ひとえに共同体自身の安定にこそあった。「村八分」の最終目標が共同体の安定的維持にこそ在り、排除や追放というネガティブな心理文脈の内に雪崩れ込んでいくものではなかったのである。

 他人を貶めることによって自分の優位を確認するという近代社会の差別の文脈は、本質的に無限連鎖の構造を持ってしまうのである。なぜならそこに、自己完結性が欠落するからである。差別や虐めは、寧ろ、豊かで平和で民主的な社会でこそ陰湿化してしまうのだ。
  


* 「母性愛」こそ至上の愛である、という手強い物語が近代の発明であることは、バダンテールらの著作(「母性という神話」)でもはや自明である。私が遣り切れないのは、こういう物語を作らなければ子供を愛することができない母親が出現してしまうという、その冷厳な現実それ自身である。

 「母性愛」などという本能を、私たち人間が持ち合わせていないことくらいは、子供を育ててみれば経験的に分かりそうなのに、それでもこの物語に固執するのは、可愛くない子供を育ててしまった恐怖を中和する防波堤にしたいからとも考えられる。この物語は、言ってみれば、情緒不安定な若い母親を家庭から逃亡させないための巧妙なトリックとも言える。優しさとか思いやりの感情は、何よりも成熟した自我から生まれるのであることを確認しておこう。



* 19世紀に詐欺や暴力によって蓄財をなした結果、「泥棒男爵」という汚名を着せられた多くの実業家は、晩年、その財を公共機関に寄贈したし、また「ゴッドファーザー」(フランシス・フォード・コッポラ監督)でも丹念に描かれていたが、マフィアは無慈悲な殺人の後、その度に神に祈ることによって、自らの行為を浄化し得ると信じたようでもあった。とりわけ、罪のない子供を殺した後、神に祈ることで自らの行為の不条理を中和化する偽善性を描いたとも思われる、「処女の泉」(イングマール・ベルイマン監督)の世界の映像表現の決定力は出色だった。

 「罪の文化」で生きると誇る彼らにとって、「良心」とは、自らの悪徳を浄化してくれる格好の文化装置であるということなのである。まさに、「人間の良心なんて、考えよう一つでどうにでも変わる」(映画「海と沈黙」の中の医学生の言葉)のだ。

 「良心」に対する異なった定義を持つ者たちが、お互いにそれについて議論し合っても、そこにどのような了解の着地点が生まれるのだろうか。一方が他方を、「良心」の名において裁くとき、それは観念の一方的な押し付けであって、多くの場合、「勝者」の傲慢以外の何ものでもないのだ。



* この国の子供たちのアンケートを採っても、「何も欲しくない」という解答が第一になるという社会を、私たちは作り上げてしまったのだ。この社会を、私たちは二度と手放さないだろう。私たちの自我に刷り込まれた快感は、加速していく方向にしか動かない。加速化を求める快感は、必ずそれ以上の快感を求めざるを得ないのだ。快感と快感の僅かな時間の隙間に、飽食は生まれる。飽食とは、次の快感を手に入れる前の小休止でしかないのである。

 飽食がより高次のレベルの快感を招き入れ、自分たちの感覚器官をますます高感度にしていくとき、これが、快感濃度の異なる現代の子供たちには、累乗効果として作用するだろう。大人の高感度の刺激情報が、子供の自我に刷り込まれる一方、子供自身もまた、快感情報を自分の感性で濾過し、それを自我に刷り込んでいく。現代の子供たちには、最初からこうした情報しか刷り込まれていないのだ。子供たちには、より低レベルの快感情報には殆ど心を動かされないほどの高感度の反応形成が、それ以外にない必然性によって常態化されているのである。

 そして彼らには、少しばかりの不快情報、例えば、家の中で一匹の蟻が動き回っている状態ですら許容限界を超えてしまうのだ。一匹の蚊の闖入(ちんにゅう)は、間違いなく、子供たちの集中力を破壊するだろう。かくも過剰なる、異物に対する拒絶的な反応形成を作り出した文明社会こそ、陰湿な虐めや告発社会の母体となっていくのである。
 

 
* 近代文明が私たちに保証した、過剰なまでに多様な選択肢は、私たちの差異化感情を方法的に充足させる何かではあるが、却って私たちの自我を疲弊させ、私たち自身を孤立化させてしまう負性的側面を随伴させている。

 そのような負性的側面を補償するために出現したテーゼが、〈共生の時代〉への志向であった。これは、「地球環境問題」という名の「エコロジー現象」の、俄ブームの如く見える目立った到来に対応しているが、そこでの「共同性」の本質は、相互扶助を軸とする、関係における「共生」への模索である。現代社会に雨後の筍のように誕生する各種の親和的サークルの現象は、何よりも、人々の共生感情の願望が集約されたものであるとも言えるだろう。

 人間の自我は、どこかで自己完結性を確認していないと生きていけない特性を持つと言っていい。始まりがあって終わりがあれば、それだけで人々は、その固有の人生を特定的に区切って上手に生きていけるのだ。これが、人々をして、スポーツや、各種の「道レジャー」に熱狂させる一つの心理的因子である。

 かつて山崎正和も書いていたが、私たちはスポーツに、疑似自己完結性を求めたのである。これは近代産業社会が、本質的に拡大再生産的なエンドレスの構造を持っているからだ。せめてスポーツや文化に、適正サイズの自己完結的な燃焼を求める他にないのである。

 「共生」の模索と、自己完結性への志向。そしてその泡立った状況下で、可能な限りの差異化を志向する。「共生」しつつ差異化を果たし、アイデンティファイし得る自己完結物語を貫徹する。これが、現代人の心象風景の平均的な様態であるだろう。



* 二・二六事件に代表される、「日本型闘争者」の殆ど宿命的な不幸 ―― 内実よりも様式、目標よりも手段、結果よりも動機、或いは、「結果良ければ、全て良し」というプラグマティックな心理文脈とも共存できてしまういい加減さ、更に、持続そのものよりも、持続を保証していくときの努力過程というものが、一つの自立的で、特化された価値を帯びるような文化を背景にしなければ、堅固な思想的基盤を持つことなしに精神主義を安売りする通俗性にまで下降する、その構造的文脈が理解できないだろうし、そこにこそ、彼らの不幸の源泉があったとも言えるのだ。
 




 

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