2008年12月24日水曜日


 【人生論的短言集】(画像はキルケゴール)


* ほんの僅かな情報で「善悪」を言い当てる。そこに羞恥を覚える自我の反応の度合いが「知性」の濃度になる。



* 「やってはならないこと」と「やって欲しくないこと」を峻別できない者に、相応の権力を与えてしまうこと。そこから人間の悲劇の多くが生まれる。



* 突入するにも覚悟がいるが、突入しない人生の覚悟というのもある。覚悟なき者は、何をやってもやらなくても、既に決定的なところで負けている。



* その精神が必要であると括った者が、それを必要とするに足る時間の分だけ、自らを鼓舞し続けるために、「逃避拒絶」のバリアを自分の内側に設定する。それを私は、「覚悟」と呼ぶ。

 できれば、その内側に「胆力」をも随伴させる必要があるだろう。「恐怖支配力」こそ、「胆力」という概念の本質であるからだ。



* 「肯定的なる批判精神の柔和なる表現」 ―― 私はそれを「ユーモア」と呼んでいる。 



* 自分のことを少しでも知る者から見透かされることの恐怖感 ―― それが虚栄心の本質である。



* 自らを知るということ ―― それは、自己の存在を理解する他者の心情をも把握するということである。自己の能力や感情傾向を把握した上で、その自己を認識する他者のその認識の許容範囲を正確に把握すること。それが正確に捕捉されれば、人は自らが冒す誤りの多くの部分を修復し得るであろう。



* 私たちは程ほどに愚かであるか、殆んど丸ごと愚かであるか、そして稀に、その愚かさが僅かなために目立たない程度に愚かであるか、大抵、この三つのうちのいずれかに誰もが収まってしまうのではないか。



* 「偉人」、「聖人」伝説の厄介なところは、目立たない程度の愚かさを持つ人間に対して、「完全無欠の物語」を被せてしまうという、まさにその愚かさに無自覚すぎる点である。



* 役割が人間を規定することを否定しないということは、人間は役割によって決定されるという命題を肯定することと同義ではない。そこに人間の、人間としての自由の幅がある。この自由の幅が人間をサイボーグにさせないのである。



* 人間には、役割によって全てが決定されてしまうに足る完全な能力性など全く持ち合わせていない。人間は、人間を支配し切る能力を持ってしまうほど完全な存在ではないということだ。いつもどこかで、人間は人間を支配し切れずに怠惰を晒すのである。

 これは、人間の支配欲や征服感情の際限のなさとも矛盾しない。どれほど人間を支配しようとも、支配し切れぬもどかしさが生き残されて、遂に支配の戦線から離脱してしまう不徹底さを克服し得るほど、私たちの自我は堅固ではない。

 人間の自我能力など、高々そのレベルなのだ。私たちは相手の心までをも征服し切れないからである。ここに人間の自由の幅が生まれるのである。この幅が人間を生かし、遊ばせるのだ。



* 自分がいつでも他者に注目するわけではないように、他者もまた自分へのウォッチャーではあり得ないという風に、関係の中で自己を相対化できない自在性のなさにおいて、「過剰なる営業者」は飛び抜けて偏見居士である。偏見とは過剰なる価値付与なのだ。ここでは、関係の中での自己の存在を必要以上に価値付けてしまっているのである。



* 人から僅かでも嫌われるような事態を恐れるその自我の狭隘さは、他人の揚げ足を取らずにいられない偏狭なる一言居士と、恐らく、コインの裏表の関係を成している。その自己中心性と主観性、その偏見の度合いと傲慢さにおいて、彼らはいつも関係の深き森に潜むことが叶わないのだ。
 


* スマイラーや偏屈を通せないと、瞬(またた)く間に自己像が壊れると思っているのか。その自己像の破綻が、自らの社会的ポジションを揺るがすことに耐え難いのか。何かに捉われたようなその呪縛感には、自己を間断なく展開していかないと安寧を手に入れられないと幻想する頑なさが張りついている。この頑なさが、その特有の表現様態を突き上げていて、そこでの多忙さが、自らを内深く掘り下げていく系統的な地道さへの隘路となっているのだろうか。



* 人は最も辛い体験を語るとき、大抵、節目がちになる。究め付けのような羞恥や、深い悔悟の思いをダイレクトに炙(あぶ)り出してしまう表情を晒したくないからだ。堂々と自己顕示できない世界の中で人が呻くとき、人はその呻きの辛さを振り絞って吐き出して、なお吐き出して、それでも吐き出し切れない何かが、呻きの主体の自我を揺さぶって止まないのである。



* 日常性の裂け目の中からぬくもり(安らぎ)が作られる。ぬくもりの継続感を、私たちは「幸福」と呼ぶ。この継続感は、程よい心地良さで収めておかないと痛い目に遭う。少な過ぎるぬくもりより、過剰なぬくもりの方が性質(たち)が悪いのだ。ぬくもりで保護されすぎた人生には、ぬくもりの意識すら生まれない。「幸福」の実感も殆んど曖昧になってしまうに違いない。「想像の快楽」で遊ぶ余地が少ない幸福感の稀薄さ。人間的なものから遠ざかっていく怖さが、そこにある。



* 全ての不幸は不幸の現実からではなく、不幸であるという、自我なる厄介なものに張りついた集合的なイメージによって、いつも其処彼処(そこかしこ)に存在してしまうのだ。不幸という感情が不幸の全てなのである。



* タブーを越えても、吐き出したいだけのモチーフが崩れれば、大抵、予定調和の世界に入っていく。情愛をベースに結ばれた関係とはそういうものだ。



* 母の甘えと子供の甘えが程好く混淆されていて、何某かの衝突を収拾するであろう、和解に向かう関係の経験的なスキルの存在が、実に良く混淆された甘えを存分に生かしきっている。

 衝突は必ず、和解という予定調和に流れ込まねばならない。だから、衝突にも技術論が必要なのである。衝突の技術は、和解の不自然さを解消するのだ。母と子の、殆ど日常的な諍(いさか)いのゲームもまた、経験的な技術の勝利であった。



* ゲームの後の労(いたわ)りには嘘がない。母子は少しずつ傷つけあって、その度に労りあう。ゲームに免疫力が出てきて、関係の修復力は増強する。こうして少しずつ、目立たないように動いていくのだ。



* 普通の教育を受けた大人の自我に、少なからず、「あの素晴らしかった子供の世界に戻りたい」という願望が潜在するのは、第一に、自我の一貫性を保持したいという志向性であり、第二に、大人社会のストレス処理のためであるだろう。その意味で、私たちの「退行」は、大抵、「部分退行」であり、「方法的退行」である。いつでも日常性に還ってくる確かな航路が確保されていることによって、私たちは非日常的な「退行」を許容するのだ。

 
* 日常性はほんの少し更新されていくことで、自在に変形を遂げていく。それが日常性の基盤に組み込まれて、新しい秩序を紡ぎ出す。そこからまた新しい出口を見つけ出して、人々はそぞろ歩いて止まなくなるのである。



* 「私は充分に煩悶した」という自己像認知の内に、自らが繋いでいった物語を壊さない程度に、なお省察し、懺悔する時間を拾い上げていく限り、貴方の「良心」は繋がれたのだ。自己検証されたのである。それで充分であるという辺りで、貴方は常に計算しつつ、自己像の致命的な崩壊を防ぎ切っていくであろう。



* 「良心」とは、或いは、内に向かった攻撃性である。

 その攻撃性を実感し、自己了解することで、人は「良心」という甘美な蜜の味にいっとき酔いしれる。自虐することで得られる快楽に際限はない。イエス然り、聖フランチェスコ然り、トルストイ然り、ガンジー然り、嘉村磯多(かむらいそた)然りである。

 際限のない自虐の展開は、大抵、周囲の人間を巻き込んでいく。「良心」の呵責に苦しむ自我を他者に認知してもらいたいのだ。



* 人は自分を不断に告発し、断罪し、苛め抜くことによって、「ここまで責めたから赦しを与えよう」という浄化の観念に、束の間潜り込んでいく。それを私たちは「良心」と呼んでいるが、そこに、「自虐のナルシズム」という感情ラインが重厚に絡んでいる心理的文脈を誰が否定できようか。



* シフトすべき充分条件の澎湃(ほうはい)の中で、その機を逃したらもはや堪えられないという絶妙なタイミングのもとで、決定的に動くこと ―― まさにシフトすることで自分の中の何かが守られて、そこから何かが見えてきて、そして、そこを起点に動き出すであろう何かを手に入れるのだ。

 

* 私たちの内側では、常にイメージだけが勝手に動き回っている。しかし事態は全く変わっていない。事態に向うイメージの差異によって、不安の測定値が揺れ動くのだ。イメージを変えるのは、事態から受け取る選択的情報の重量感の落差にある。不安であればあるほどに情報の確実性が低下するから、情報もまた、イメージの束の中に収斂されてしまうのである。

 結局、イメージが無秩序に自己増殖してしまうから、不安の連鎖が切れにくくなるのだ。イメージの自己増殖が果たす不安の連鎖によって、いつしか人は、予想だにしない最悪のイメージの世界に持っていかれてしまうのである。最悪のイメージに逢着した自我が、そこで開き直る芸当を見せるのはとても難しく、そこに澱んで、自らを食(は)んでしまう恐怖から、一体、誰が生還できると言うのだろうか。
 
 

* 動いて危機を脱するという方法論は、全く無効であるとは思わないが、じっと動かずに、諦めることによって開かれる未来というものもある。

 迷って、迷って、迷い抜いてもなお決断がつかないとき、私の場合、「このままでいい」と思うことにしている。それもまた、一つの決断であるからだ。



* 【目標設定→ 状況分析→ 戦略・戦術 → 万全の準備 →総括・検証】―― この基本的な流れが合理的に進んでいくことによって、そこに一定の自己完結を結ぶとき、私はそれを「リアリズムの自己完結」と呼んでいる。

 とりわけ、困難な課題を主体的に引き受ける限り、何よりもリアリズムの視座によって、どこまでも冷徹に課題解決を図る必要がある。そしてその状況下で、課題解決が充分な達成をもたらさないと総括されたとき、そこに、「よりましな達成」を保証するような修復過程の介在が求められるだろう。

 その問題意識を持って、その過程を抜けていくだけのことだ。「よりましな達成」の獲得が、どれほど重要な意味を持つかについては、その過程に一定の自己完結を果たすとき初めて感受するだろう。



* 「天才の法則」、「天才もどきの法則」、「スモール・ステップ(SS)の法則」そして、「法則にもならない無原則な生き方」。人生のスタイルには、この四つがあると思われる。

 その腕力と、本来的な「激情的習得欲求」(ある女性脳科学者の言葉)に任せて、大目標に向かって直進する天才者と、その多くの追随者の激越な突破力と切れて、SS者の快楽は日々の自己完結感の達成にある。一つ一つの達成感の累積に生きられる、SS者のもう一つの強みは、目標を自在に変更できることだ。目標の達成がきつかったら、「今、このとき」の可能な目標に切り換えて、とにかく一つ抜け出すのである。 

 実現可能な目標への地道な行程を継続し切ったその向うに、より開かれた未来が待っていて、振り返ったら、軌跡がラインとなって浮かんでいる。少なくともこの生き方は、優先順位をミスリードしない堅実性において群を抜く。ここにも「もどき」がいるが、本物のSS者が一番強いのである。



* 「妬まず、恥じず、過剰に走らず」―― これを私は「分相応の人生命題」と命名し、肝に銘じているが、実際の所、「過剰の抑制」が一番難しい。

 側頭葉の扁桃核から前頭葉に走るA10神経は、多量のドーパミンを分泌しているがが、肝心の前頭葉にオートレセプターがないので、フィードバッグ機能が充分に作動せず、いつでもドーパミンが過剰に分泌されてしまうらしい。欲求実現や、等身大、またはそれを超えるテーマに関わる自己実現のプロセスの中で、どうしても「過剰の抑制」が成就しないのである。

 「分相応の人生命題」の日常的検証は、いつも少しずつ、適正確保の中枢からずれていって、脆弱な自我だけが置き去りにされてしまうのだ。それでもなお、自前の哲学に継続性を持たせたいと括る意識だけは安楽死していないようだから、せいぜい、内側の世界で「覚悟の一撃」を再生産していくことである。肝に銘ずべし。



* 愛、思いやり、優しさ ―― 勝手に読まれ、物語含みで増幅的にイメージされていくこれらの言葉から、人々は知らずのうちに重量感を失っていく。こうして言葉がゲームとして変換され、存分に消費され、遊ばれていくのである。



* 「親愛」、「信頼」、「礼節」、「援助」、「依存」、「共有」―― 以上の六つの要件こそが、友情を構成する因子であると考える。いずれも重厚に脈楽しあって形成された心理的文脈であり、これら全ての要件が適度に均衡しあって形成された関係様態。それを私は「友情」と呼んでいる。



* 「秘密の共有」と「仮想敵の創出とその共有」 ―― これが、「友情」を「同志」に変えさせていくときの中枢的な情感コードとなる。



* 「教育とは自由の使い方を教えることだ」という名言を残したのは、「さよなら子供たち」(ルイ・マル監督)の中のジャン神父である。眼から鱗のようなこの名言の決定力は、最も厳しい時代を生き抜く覚悟なしに生まれなかった。

 覚悟こそが言葉を分娩し、そこに血流を吹き込んでいく。「自由の使い方」を喪失した時代の浮薄さが垂れ流す、ジャンクな言葉の氾濫 ―― もうそこには、「教育」という概念に命を吹き込むリアリティは復元しないのか。



* 「絶対の自由」への旅人には、相当の覚悟が求められる。

 第一に、路傍で死体になること。第二に、その死体が迷惑なる物体として処理されるであろうこと。そして第三に、一切がほぼ意志的に、一ヶ月もすれば忘れ去られてしまうこと。この三つである。

 即ち、一人の旅人から完全に人格性が剥(は)ぎ取られ、生物学的に処理されること。このことへの大いなる覚悟である。それは、「絶対の自由」に近づいた者が宿命的に負う十字架であるだろう。―― それでも貴方は、「絶対の自由」への旅に向かうのか。
 


* 「赦せない」という感情ラインと、「赦してはならない」という道徳ラインが結合すると、しばしば最強の「憎悪の共同体」を作り出す。これを法の論理で突破するのが困難になるとき、そこに死体の山が重なっていく。人間の歴史は必ずこれを内包するから、私たちの精神の僅かの進化が目立たなくなるのだ。そういう目立たないものでも守り続ける根気があるかどうか、それも知性のフィールドである。



* 「健康」、「老化」、「生活の質の低下」、「孤独」―― この四つのキーワードは、近代社会に呼吸を繋ぐ者の恐怖感と言っていい。この恐怖が老境期に集中的に襲ってくるのだ。

 貴方はそれに耐えられるか。

 老境期こそ精神的体力の強度が切に求められる、人生最大の正念場である。老境期は「生きがい」よりも、「居がい」の方が決定的に重要であるとも言われる。老境期に人生の頂点をもっていけるかどうか、そこに全てがかかっている。



* 「恥じらいながら偽善に酔う」―― このスタンスを崩さないことだ。

 束の間酔って、暫く恥じらい、そしてまた、昨日もまたそうであったような日常を、自らの律動で動いていくことである。酩酊を一定の流れの中で遊ばせて、その流れの中で清算し、その一部を明日の熱量に繋いでいけば、殆ど自己完結的ではないか。人は酔うときにも、その酔いに見合っただけの自己管理が必要なのである。
 


* 相手に不必要な心理的債務感情を与えることなく、本人がその対応に満足感を示し、且つ、その行為に外的強制力が媒介しないレベルの偽善を否定するほど、私たちは気高くはない。それが他者の眼にはどれほど胡散臭く見えようとも、そのことによって相手が手に入れるメリットの方が遥かに大きいならば、そのような善の遂行は全て良しと考えるべきである。



* 他人から見えないところに出口を確保したあと、人は己を巧妙に責め立てていく。抑制的で、計算された攻撃性に快楽が随伴するとき、それを「良心」と呼ぶことに私は躊躇しない。何のことはない。「自己嫌悪」とは裏返された自己陶酔なのである。



* 最高身体条件と最大集中力 ―― この二つが堅固に繋がったとき、人は自らに肉化された技術の出し入れの絶妙な時機と、その発現の完成度を目一杯高めあげていく。「自分十分、相手不十分」という磐石な体勢の中でこそ、一見、超絶的に見える技術の自在なる展開が可能になる。

 高度に計算された自我戦略の、瑕疵(かし)の少ない合理的な結実。その果てに、成功という名の報酬が待機している。



* プレッシャーとは、「絶対に失敗してはならない」という意識と、「もしかしたら失敗するかも知れない」という、二つの矛盾した意識が同居するような心理状態である。

 そのため、固有の身体が記憶した高度な技術が、ゲームの中で心地良き流れを作り出せない不自然さを露呈してしまうのだ。この二つの矛盾した意識が自我の統括能力を衰弱させ、均衡を喪った命令系統の混乱が、恐らく神経伝達を無秩序にさせることで、身体が習得したスキルを澱みなく表出させる機能を阻害してしまうのではないか。



* 河を渡ったことがない者に、河の向うの快楽は手に入らない。河を渡ったことのない者に、そこで得た快楽の代償の不幸にも捕捉されない。快楽を手に入れたいが、不幸には捕捉されたくない。そんな虫のいい者は永久に河を渡れない。せいぜい、河の向うの快楽を想像して愉悦するだけだ。河を渡れない者にとって、「想像の快楽」こそ最強の快楽なのだから。その決断も、時として誇り得る勇気であるに違いない。



* 覚悟なしに河を渡るものがあまりに多い。当然、報いを受ける。大抵本人は、その報いを自分の内側の深い所で受け止めない。だから多くの場合、人のせいにする。人のせいにするから、いつだって貧困なる人生のリピーターになるのだ。



* 見てしまわない限り、そこには何もない。

 大抵の不幸は、見てしまった後からやって来る。初めのうちは輝きの微笑を放っていたものが、やがて色褪せて、遂には煉獄の淵に立ち竦む。立ち竦んだとき、人生の何が見えたか、何が見えなかったか、あまりに様々である。それでも湿度の高い時間を濃縮したような、決定的な人生のゲートがそこから開かれるなら、貴方は決して高い買い物をしなかった。

 見てしまった限り、貴方はそこを突き抜けていくしかない。
 見てしまった限り、貴方はもう戻れない。見てしまうことに、如何に覚悟が必要だったか。大抵の人がそのことを知るのは、いつも見てしまった後なのだ。



* 「今の若者にはついていけない」、「今の世の中は最悪だ」、「将来が嘆かわしい」などという類の、大抵の人々の普遍的物言いの趣味の裏側には、昔を懐かしむだけの、「あれはあれで良かったのだ」という思いが、いつも少しずつ寝そべっている。

 老化する一方の自分の周囲を囲繞する、様々なる快楽装置への違和感と嫉妬感を無化するためには、多くの場合、このような簡便な文脈的括りが求められるからである。



* 仮想敵を持たない青春が最も憐れである。

 その暴走を喰い止めてくれる壁もない。微温ゾーンをゲームが駆けていく。骨格の脆弱な他愛ないゲームと化した青春が、其処彼処に舞い踊る。仮想敵にならねばならない何ものかが、ゲームを煽動するのだ。

 かくして、言語の切っ先が苛烈に先導した一切の青春論は息絶えた。人生論も息絶えた。そこに、過剰なまでに「察し」を乞う、「幼形成熟」の如き、予定調和的な依存型のゲームだけが生き残された。



* 青春の尖りには二種類ある。
 一つは「自己顕示」であり、「自己主張」であるが故の尖り。もう一つは、「自己防衛」としての尖りである。

 前者の尖りは青春そのものの尖りであり、まだ固まっていない漂泊する青春が、その内側に蓄えてきた熱量が噴き上がっていくときの、「怒りのナルシズム」である。
 それは青春が初めて、その怒りを身体化させていくに足る頃合いの敵と出会って、その前線で展開されるゲーム感覚の銃撃戦を消費する快楽であるだろう。

 従ってそれは、そこで分娩された快楽を存分に味わっていく過程で、自我を固有な形に彫像していく運動に収斂されていくので、その運動が極端に規範を逸脱しない限り、一種の通過儀礼としての一定の社会的認知を享受すると言っていい。青春を鍛えるには、それが鍛えられるに相応しい敵対物が求められるからである。敵対物の存在しない青春ほど、哀れを極めるものはないのだ。漂泊する青春を過剰に把握し、その浮薄なる「既得権」を必要以上に守る社会が一番劣悪なのである。



* 守るべき者がその身に負った過大な重量感が、そんな青春をしばしば苛酷にする。そこには、ゲームが支配するガス抜きのルールが存在せず、青春の尖りは険阻な表情を崩せないでいるに違いない。それ以上追い詰めてしまうと、青春という液状の自我が、社会のどのような隙間からも一気に流れ去ってしまいかねないような充分な危うさを抱え込んでいるのである。

 従って、その自我が必死に防衛しようとするものに、許容値を越えた劇薬が含まれていない限り、社会はその尖りに、寧ろ同情的であっていい。潮目の辺りで、我が身を乗せる流れにしがみつく青春にこそ、救命ボートの一艘くらいは差し向けられてもいいのである。しかしそんな青春に限って、我が身を守るはずの攻撃的な棘によって、しばしば痛々しいまでに自傷してしまうのである。
 


* この国の若者たちは、長期にわたるモラトリアムの漂流の中で、本気で覚悟を括って「内こもり」を延長し得るのか。

 「突破し切れない状況」を既成事実化することで得られる相応の快楽よりも、世界に繋がり得る等身大の自己の宇宙の構築への艱難(かんなん)だが、それ以外にないと信じる時間に向かって、ほんの少し、その身体を匍匐させようとは思わないのか。そう思うからこそ苦悶し、そのジレンマの中で却って動けなくなってしまう心理はとても理解できる。

 それでも、敢えて言いたいのだ。

 もし思うなら、件(くだん)の若者たちはそれを身体化すべきであると。ほんの少し、その身体を匍匐(ほふく)させることで何かが変わり得るかも知れないのだ。何も変わらないと嘆いて、自分のその匍匐の空虚さを感受するなら、「動いたけどダメだった」という類の、格好の逃走方略を手に入れられるではないか。それは自分の非行動の、厄介な負の連鎖に呪縛されていた気分をもっと悪化させてしまう可能性があるが、「少しでも動いた」という記憶が、「動けなかった身体」という負の情報に捕捉されたその心の冥闇(めいあん)を、もしかすると、ほんの少し払拭してくれるかも知れないのである。

 動きださなかったら、怪我をすることすらできないのだ。その逃走方略が、逆にその者の心をいよいよ泡立たせていって、その騒がしさの中で、何かが変わっていくかも知れないのである。「少しでも動いた」事実の身体感覚を知るには、「少しでも動いた」という実感の中にしか拾えないのだ。変化とはそういうものである。



* 偏見とは、特定なものへの過剰なる価値付与である。価値の比重が増幅される分、公平な観念が自壊している。想像力の均衡が自壊している。その分、教養のレベルも自壊しているだろう。



* 自分が嫌う相手を自分と一緒に嫌い、自分と一緒に襲ってくれる者を人は「仲間」と呼び、「味方」とも呼び、しばしば「同志」と呼びさえもする。この「仲間」たちと共有する一体感は、感情が上気している分だけ格別である。

 そこでの歪んだ「集団凝集性」の異様な高揚の中で、リスキーシフト(集団の中では言動が極端になりやすいこと)が其処彼処で顕在化し、もうそれは、極上の快楽以外の何ものでもないのだ。



* 「確信は嘘より危険な真理の敵である」―― これは、「人間的なあまりに人間的な」の中のニーチェの言葉である。「確信は絶対的な真実を所有しているという信仰である」とも彼は書いているが、それが信仰であるが故に、確信という幻想が快楽になるのだ。

 例えば、人がその心の中で大きなストレスを抱えていたとする。そのストレスは自分にのみ内在すると確信できるものなら、基本的に自分の力でそれを処理していく必要が出てくる。ところが、そのストレスが自分にのみ内在するものではなく、自分を取り巻く環境に棲む者たちに共通するものがあると感じ、且つ、そのストレスを惹起させる因子が外部環境に大いに求められると感じたとき、人はそこに、しばしば他者との「負の共同体」と呼べる意識の幻想空間を作り出す。そのとき、自分の中の特定的イメージがその幻想空間に流れ込んで、それらのイメージが一見整合性を持った文脈に組織化されることで、そこに集合した意識の内に「確信幻想」が胚胎されてしまうのである。



* 人は確信を持ったとき、全く別の人格に自らを変容させる能力を持ち得るのだ。その現象が、「ドイツ」という巨大な自我の坩堝(るつぼ)の中で急速に検証化されたとき、もう彼は、「政治こそアートである」という幻想の命題に逢着してしまう以外になかったのである。そしてその屈折した観念の行き着く先は、「憎悪の共同体」であった。そのとき「負の共同体」は、「憎悪の共同体」として、「ドイツ」という自我を勇壮に立ち上げてしまったのである。

 「アドルフの画集」(メノ・メイエス監督)という傑作の中で描かれた、あのオーストリア人の話である。



* 人は何故、告白手記を書くのか。

 自分の正当性を訴えたいからである。仮想敵の正当性を毀(こわ)したいからである。取るに足らない正当性を奪い合うためのちっぽけな前線の確保―― ある種の人間は、そこに貴重な活力源を汲み取って止まないだろう。このような卑小なゲームに真剣に取り組むことができるのも、人間の歪んだ意志の一つだからである。



* 「今の若者にはついていけない」と言わねばならぬ人々は、充分に過去に繋がっている。そのように言われ続ける人々は、充分に未来に繋がっている。ほんの僅かな時間の誤差が、その時代に輝いていたに違いない価値観に弄ばれているのだ。

 恐らく、悠久に続くだろう手垢のついた幻想も、その時代にしか生きることが叶わない人々には常に正当であり、存分に快適だからである。



* 血を吐く辛さの手前で、さっと引き返すことができる辛さ。このような辛さは本質的にゲームである。しかし、人生に彩を添えるゲームでもある。こんな小さなゲームの殆ど予定調和の経験則によっても、魂を鍛える何かになるからだ。



* 負けて泣くことが赦されるかどうか、しかもその事が、観る者に感動を与えるかどうか ―― それがスポーツのメンタリティの次元における、プロとアマの違いの一つである。



* 生とは死である。良き生とは良き死である。良き死とは臨終に際し、自分が何者であったかを知るものである。良き生とは、何者かであるはずの個我に辿り着いたか、或いは、辿り着く何かを知ることである。



* カナダ極北に住むヘアーインディアンは重篤な疾病に罹患したとき、呆気なく死んでしまうケースが多いと聞く。これは彼らに、生命の継続を念じる強い意志が相対的に欠落しているためでもあるが、それに加えて、彼らの固有の輪廻思想が介在することで、彼らの中で死への恐怖感が削り取られている事実が持つ意味は大きいだろう。

 このような独特の物語を保持することで、彼らの生命の永遠性が保障されるのだ。だから彼らの中では、「まだ死にたくない」という振れ方をする自我の、その本来的な生存戦略に固執する理由が中和化されてしまうのである。

 それもまた、人間の自我が作り出した高度な知恵の結晶であると言える。それは、より長く生きることよりも安寧な死への着地点を確保することの方が、自我のダメージが少ない戦略でもあるからだ。



* 迫りくる死の観念に搦(から)め捕られるとき、紛う方なく人は生きている、弱々しくも、人は生きている。その観念が自分の自我のみを苛烈に揺さぶる理不尽な思いの中で、人は生きているのだ。「死の絶対性」が観念を荒らし尽くし、甚振(いたぶ)って、そこに自分だけが世界から取り残されたような不条理な心境下で、人は「絶対孤独」としか形容できない世界を垣間見てしまうのだ。



* 「孤独の絶対性」―― それは、人間が「私の死」のみしか死ねない絶対的な真理であり、それが常に自分の観念を暴れ回ってしまったら、人はもうそれ以外の「死」を死ねない現実を、まさに「私の生」の実在感の中で捕捉してしまうのである。

 この観念の暴走が、「私の生」の実在感の中で出来してしまうので、私は、「今、ここに存在することの大いなる不快」に耐えねばならない。耐えて生きていかねばならないのだ。この「孤独の絶対性」に耐えていくことがあまりに辛いから、多くの場合、人は「今日という一日を、一生分の重みとして完全に生き切る」ことで、何とかそこに一縷(いちる)の曙光を見出すのである。まさに、「死は生の一部」なのだ。
 


* 「良き老い」とは、遠ざかったり、近づいたりすることでも、喪ったり、手に入れたりするような何かではない。自分がこれまで集めて来た数多のジャンク情報の中から、臨終に向かって、最も重要な情報だけを選択することを明瞭に認識できるステージに登ったときの、ある種の苛烈な血のフィールドである。少なくとも、そのフィールドの中に、「良き老い」の意味を解く全てがある。

 人は捨ててこそ届くのか。



* 恐怖は憎悪によって、楽々と超えられる。しかし時間を超えてきた憎悪は、爆轟(ばくごう)のような圧倒的な何かによってしか超えられない。恐怖を楽々と超えてしまう憎悪を空間で中和するのは、爆発して粉々になるほどの覚悟しかないのだ。

 そんな覚悟で危機に入れるか。危機を抜けられるか。



* この困難な時代において求められている精神は、自分を守り、家族を守り、そこで成し得る限りの武装を完備し、状況突破の攻勢を仕掛けていく逃避拒絶としての「覚悟」と、恐怖支配力としての「胆力」であるに違いない。それこそが、困難な状況を突き抜けていく最も強力な自己武装となるであろう。  



* ごく特別なケースを除けば、何某かの形を持つ私たちの「生き方」は、「趣味」という概念で説明できると言っていい。同時に、その「死に方」も「趣味」であるだろう。そこに出来る形は、「趣味」が開いた形である。それらの形の枝葉末節について様々に価値付けるのは、恐らく、最も愚昧な「趣味」であるに違いない。だから彼らは、「死の美学」なるものに拘ってしまうのか。

 一切は趣味の問題なのだ。それ以上でも、それ以下でもない。



* 社交を趣味とする者に、それをさして趣味としない者が社交によって反応するときほど、覚悟が必要なときはない。覚悟がないからしばしば、同じ土俵に上れない辛さを糊塗(こと)するかの如く、相手の悪口を不毛なまでに撒き散らす。そのような愚行に走る前に、貴方はもっと考えるべきであった。貴方の求める社交の本質がどこにあったかを。



* 昨日と同じ辛さを恒久に生きる者に、投げかける言葉などない。投げかけられる言葉もない。所詮、私たちの身体化された如何なる表現も、件(くだん)の者の辛さの深奥には届かないのだ。それでも貴方が心理的共存を捨てられないとき、貴方は貴方の、その辛さをこそ生きていけ。なお生き切って、そこで拾ったイメージの畔を漂流せよ。人の心の、果てしない闇の世界の只中に辿り着いたと幻想するイメージの畔で、他の何ものにも代えがたい、貴方の苦悶をこそ苦悶せよ。



* どんなに世界が変わっても、どれほど時代が移ろっても、自分の身勝手さと愚かさに恥じない者たちが必ず輩出する。人間の歴史の中で、これだけは絶対に変わらない。時代や社会の問題に還元できない彼らの愚かさは、その者たちが本来的に持っている愚かさであるが故に、その者たちの環境が少しばかり好転したぐらいで簡単に変わったりしないのだ。

 従って、その者たちと関わった不幸なる者たちの人生は、そこにどれほど悲哀を極めても、同情の限りでしかないのである。この不幸にヒットした対象が子供であれば同情を禁じ得ないが、しかし哀しいかな、その子供の人生を好転できない環境が、そこに絶対的に存在するとき、私たちは彼らの不幸をただ憐憫し、嘆息するしかないのだ。



* 恋愛を無邪気に語る者は、酔うことができる者である。酔うことができる者は、酔わすことができると信じる者である。人を酔わすと信じるから、語る者は語ることを捨てない者になる。語ることを捨てないことによって、語り続けられることを信じる者になるのだ。



* ある意味で愛情とは受け取る愛であり、情愛とは届ける愛である。関係が成熟するとは、それらがバランスよくキャッチボールされたものである。現代は情愛より愛情の方に大きく振れている。渡すよりも貰う方ばかりが気になって仕方がないのだ。



* 恋する相手の人格性から「日常性」と「身体性」を剥ぎ取ること ―― これが「恋愛幻想」の基本的イデオロギーである。それ故、片思いの恋情を断ち切るために、私たちはしばしば、この手強い幻想破壊の世界に踏み込んでいく。

 「平中物語」という平安時代の古典の中に、片思いの相手を忘れるために、相手の大便を盗んで臭いを嗅いだというエピソードがある。ところが、あろうことか、その糞便が芳しき香水の臭いを放ち、ますます相手が忘れられなくなったという滑稽譚の落ちがついてしまった。主人公の平中にとって真剣そのものの振舞いを笑うのも気が引けるが、この逸話が「恋愛幻想」の強(したた)かを象徴するものであることは否定しようがないだろう。

 ゲームとしての恋愛の醍醐味は、「恋愛幻想」を崩すことで自我の安定を図ろうとする、際立って人間学的な営為をも網羅して、常に変わらぬ人の世の普遍的なる振舞いを検証し続けていくのであろうか。



* お互いの愛が確認されてからは、恋愛はピュアなゲームであることを止める。スタンダールの言う「第二の結晶作用」の始まりである。

 男と女の自我が、このリアルな時間の中で、一気に解放されてしまうのだ。罵り合い、泣き叫びながらも、最後は肉欲の交歓によってあっさり鞘に収まってしまったりもする。フーテンの寅さんが逃げ出した世界は、解放された裸の自我が直接的に交錯するダイナミズムの中で、揉(も)まれつつ成熟を果たしていく、最も人間的な世界なのである。そして数多の恋愛物語は、ここで終焉する。それ以後の世界は「家族愛物語」に収斂されて、恋愛が殆ど絶え絶えになってしまうからである。

 「蜻蛉日記」(藤原道綱の母)が下巻に入った途端、突如として夫(兼家)への非難のトーンがダウンしたのは、恐らく、作者の夫への恋愛感情が消失し、その分、充分に成熟した息子(道綱)との間に「心の共同体」が堅固に構築されたからであろう。そのことによって、作者(道綱の母)の自我の安定が確保されたからではないか。即ち、「蜻蛉日記」の作者は、貴族社会における一夫多婦制下にあった「夫への恋愛物語」を、「息子との母子愛物語」に読み変えることで、自らの自我の拠って立つ根拠をシフトすることに成就したのである。その時点で、既にかつての恋愛ゲームの華麗な物語の残り火は、すっかり焼尽してしまったということだ。



* アンデルセンは、片思いの恋人(ルイーゼ・コリン)に読んでもらうために自伝を執筆し、それを出版した。その中で自分の数奇な遍歴を誇張し、努力家としての自分のイメージを必死に売り込んだ。しかしルイーズから手紙を送り返されて、嘆くばかりだったと言う。

 同様に、大失恋の憂き目にあったニーチェは、今度は逆に、恋愛を野蛮な行為であるかのように書き散らしたのである。

 「ただ一人への愛は一種の野蛮である」、「決して一人の人間に恋してはならぬ……すべての人間は牢獄であり、片隅である」(「善悪の彼岸」)等々。

 終生独身で通したアンデルセンもニーチェも、恋愛ゲームの手痛い挫折者であるが故に、その物語を相対化するために、別の物語への昇華を図ることによって、ゲームの果ての悲惨な末路を克服しようとしたのかも知れないが(アンデルセンは30歳のとき、ロマンチックな芳香の漂う「即興詩人」を書いて一気に世に出た)、実の所、二人の例もそうであったと思われるように、このように恋愛ゲームに関わる私たちの自我の苦闘は遥かにどろどろしていて、だらしなく、優柔で、まるで締りがないというのが実相である。

 「卒業」、「いちご白書」とか、「幸せの黄色いハンカチ」のような劇的な恋愛は、殆ど私たちの実人生とは無縁であって、その情念のリズムは、寧ろ「オペラ座の怪人」の世界に近いと言える。相手との交歓を通して獲得した喜びや哀しみ、感動や苛立ち、憤怒、憎悪の全てを、私たちの自我が無残なまでに記憶してしまうからである。

 従って、「失恋の王道」を含む恋愛に関わるゲームの多くは、私たちの一種の通過儀礼とも言うべき、その曲線的な自我成熟の、格好のトレーニングタームとなるべき何かであると考えた方が無難であるだろう。




* 禁断の愛は、堅く封印された扉を抉(こ)じ開ける愛である。その扉を抉じ開けるに足る剛腕を必須とする愛、それが禁断の愛である。

 そして、その扉を抉じ開けた剛碗さが継続力を持ったとき、その愛は固有なる形をそこに残して自己完結する。そう思うのだ。

 果たしてそこに侵入する魂に、その愛を自己完結するだけのエネルギーを持ち得るか。扉を抉じ開ける剛腕さと、その愛を継続させる腕力は別個の何かである。一回的な剛腕さが継続力を持つには、その時間を保証するに足る極めて難度な能力を必要とするだろう。

 果たして、人はそれを持ち得るか。

 時間を継続させるエネルギーが充分に用意されても、それを上手に駆動させるには、腕力や体力のみならず、そこに、それらの魂にとって殆ど未知なる膨大な精神力というものが求められるのだ。禁断の愛の大胆な飛翔の継続は、それほど困難な何かなのだと思う。果たして、誰がそれを持ち得るか。




* 禁断の愛の継続は、単に、その継続を妨害しようとする者たちとの果敢な闘争の持続力を意味しない。寧ろ、それを妨害しようとする力が大きく作用するほど、そこに防御しようとする者のエネルギーの再生産が可能となるだろう。禁断の愛は、それを妨害する様々な因子が絡みつくほど、却って、その愛の継続力を保障する方向に向かっていくのである。

 多くの場合、禁断の愛の破綻は内側から惹起され、肥大していく。

 それは防御するエネルギーの枯渇によってではなく、それを固めて、そこに新しい価値を創造していくエネルギーの不足によって起こると言っていい。



* それほどまでに危険な愛を、なぜ人は目指すのか。それを手に入れようと、なぜ人は時には命を賭けるのか。簡単である。それが禁断なる愛であるからだ。

 禁断なる愛は魔性の愛なのである。魔性の愛はその内側にたっぷりと蜜を含んでいて、その香りに誘(いざな)われし者たちが、次々と飽きることなく、そこに魔境を作っては壊していく。その魔境の継続力の不足によって自壊するのだ。

 禁断の愛は壊れるのに易く、そこを突き抜けて王宮に辿り着くのは極めて難しい。それでも懲りない人々のラインがどこまでも続いていて、途絶えることはない。魔性の蜜の香りの起爆力の激甚さは、そこに集合する様々な因子の劇薬性に因っている。視覚的に際立った一つの愛に禁断の印をつけて、それを厭悪(えんお)し、排除しようとする因子こそ、禁断の愛を、底が突き抜けるような魔性の愛に変えてしまうのである。



* 駆け落ちの愛がようやく辿り着いた桃源郷に、既に禁断の印が風化して、そこに自由な往来が可能になったとき、その愛はもう世俗との遮蔽物を失って、現実原則的な秩序への同化のみが求められる。そこに至って、一切の幻想が消滅し、関係もまた急速に破綻へと向かう外ないのである。禁断の愛は、畔で漂流しているときが一番美しい。一番燃え盛る。一番輝きを放つのだ。
 


* 日常性を劇的に更新していく力というものが、男女の愛には確かにある。それは魔力ですらある。しかしそれはしばしば、個々の自我が刻んだ捨て難い航跡を破壊する力をも持つ。時間の連続性が済し崩しになる不安に、自我は耐えられないのだ。

 禁断の愛の魔力は、その禁断性によって圧倒的なパワーを持つ。しかし、そんな自我の堅いガードに弾かれて、私たちの多くは魔境の杜を抜けられず、体温を奪われて、晒されて、震えながら日常性に立ち返ってくる。私たちの日常は、その体温が維持される条件の下で更新され続け、時間を繋いでいくのだ。日常性の破壊的更新という魔のカードは、私たち庶民の生理に相応しくないのである。繰り返し書くが、やはり禁断の愛は、畔で佇んでいる風景が一番似合っている。
 


* 幻想の崩れは、いつでも呆気ない形でやって来る。

 過激に立ち上げられた関係ほど、その崩れはだらしない。援助の貧困が愛の貧困に流れていくと、出口をも持たない愛は一気に自壊する。百年の恋が醒めてしまうのである。愛を最後まで支え切る「援助感情」だけが、関係の中枢に、それを失いたくないものの根拠を自給するだろう。

 遂に深化を果たせなかった援助の貧困は、いずれ訪れるだろう感情の自然な鈍磨の中で、関係の生命力をじわじわと奪い取っていくのである。



* 援助に向かう感情の強さは、それを乞う感情の弱さの中には入れない。向かう感情は、乞う感情のその強さの分だけしか入り込めないのだ。愛の実感は、いつでも反応の微妙なクロスの中で刻まれるからである。二つの感情の濃度の目立った落差はあまりに危ういのである。感情の濃度が均衡を保てなければ、溶融し切れない感情が沈殿してしまうのだ。「援助感情」には常にバランスが必要なのである。



* 女はその人生の中の時間を特定的に切り取って、それを享受する能力において、概して男のそれよりも少なからず勝っているであろう。だから女は強いのだ。だから男は、常に女に勝てないのだ。男は自我に頼りすぎる傾向が強いのである。そこに身勝手な大義名分が張り付いていないと、男は女の肌と遊べないところがあるのだ。

 それに対して、女は自我抑制力とは無縁な世界で、堂々と情動系を解放することが可能であるだろう。少なくとも、男の抑制系よりも、女のそれは遥かに自在な振れ方をする。そこに倫理的に正当化しなければならない文脈を必死に求めるような、面倒臭い作業を回避する能力において、女は特段に優れていると言えるのではないか。



* 心が苦しいとき、人はのた打ち回る以外、何ができるのか。苦しいときは、苦しみ抜くしかないのだ。苦しんで、苦しんで、苦しみ抜いて、それで果ててしまったら、それはそれで仕方ないのだ。それだけの覚悟をもって、人は苦悩に入れ。苦悩の旅に予定調和はない。行ったら、抜け切るしかないのだ。そんな苦悩の旅で、人は一時(いっとき)小休止してもいい。心の辛さに、ほんの僅かな余裕を与える努力もまた無駄ではないのだ。



* 悶絶の極みのとき、人は孤独を知る。悶絶の極みにある者にかける言葉もない。人は大抵、上手に距離を置き、上手に去って行く。去って行けない貴方だけが苦悩者に寄り添うのだ。しかし、そこに何も開かれない。それしかないのだ。貴方は苦悩者の辛さを癒しきれない貴方なりの重量感をもって、その場を去って行く。残された苦悩者だけが、実存の重さを単身背負っていくしかないのだ。

 もう声を出すな。もう走るな。周囲を見回すな。悶絶の地獄へ堕ちていけ。そして運が良かったら、地獄に咲く一輪の花を見つけ出せ。そこで、芳醇であると信じたい小さくも、「今、このとき」だけは確かに救われるだろう世界を、己が世界とせよ。



* 人の不幸を尋ねて同情の素振りを見せる数分もしない間に、その同情者は不幸に喘ぐ者に聞こえるような大声で、世俗的な馬鹿話を繰り返している。これが人間なのだ。

 自分に無縁な人の不幸を世俗話のネタに出来てしまう程、私たちの想像力は、良くも悪くも愚昧さの極みを晒して見せる。結局、自分がその不幸の当事者にならない限り、悪意なき饒舌者の口を閉ざすことにはならないようだ。人間は自分の「生命→安全→愛情」の砦さえ崩れなければ、ゲームの世界しか生きられないのだろう。



* 「君の現実が悪夢以上のものなら、誰かが君を救える振りをする方が残酷だ」―― この言葉は、「ジョニーは戦場へ行った」(ドルトン・トランボ監督)の中で、一切の自由を奪われた主人公が、その残酷極まる悪夢で語られた、イエス・キリストの決定的な一言。

 映像のジョニーがそうだったように、尊厳死以外の選択肢が存在しないとき、その意志を持つ者に関わる全ての者は、そこでの関係的存在の根拠が一気に崩れ去る。

 人間は残酷なのだ。

 時には、その残酷を受け入れねばならない存在性を晒してしまう。それもまた人間なのだ。人間は、他者の死をそのような形でしか受容できない存在体でもあるということだ。



* 「心の中で僕は喚き、叫び声を上げ、罠にかかった獣のように吠える。だが誰も関心を持たない。腕があれば自殺できる。脚があれば逃げられる。声があれば話をして慰められる。助けを叫んでも、誰も助けてくれない。神さえも・・・ここに神はいない。こんな所にいるはずがない。そして・・・それでも、僕は何かしなければならない。なぜなら、このままの状態ではいられないからだ」―― この凄惨を極めたジョニーの言葉が、映像を括る最後の言葉となった。

 「それでも、僕は何かしなければならない」という言葉の持つ重量感を、共有すると信じる者が、今、ここにいて、なお呼吸を繋ぐとき、映像の世界を突き抜けて、そこにもう一つ、綻びかけた「覚悟の一撃」が括られていくだろう。



* 「人生」が成立する、四つの要件 ―― それらは第一に、「人生」を営む主体としての人格であり、第二に、その人格が展開する表現空間、第三に、そこで展開された表現を記憶に繋いでいく時間であり、そして第四に、その人格が、別の人格との間で何某かの関係を繋いでいく社会性である。

 即ち、「人生」とは、固有の人格が固有の時間の内に、社会的繋がりを視界に入れて、特定の空間で展開される固有の表現的営為であると言えるだろうか。

 「それでも、僕は何かしなければならない」と呻きつつ、「絶対孤独」の闇に屠られていくジョニーに、果たして、「人生」と呼び得る何かが成立したか否か。言うまでもなかった。



* 人間は自己に関わる固有の物語を持ち、更に、自らが拠って立つ精神的基盤を他者と共有するときの心地良さによって、その物語が前者の物語を補完的に強化されたならば、誇るべきものが自我の内側に強固に張り付く幻想に酩酊し得る分だけ、限りなく力強く生きられるだろう。幻想なしに人間は生きられないから、その幻想が他者と深々と共有しているという実感によって手に入れる快楽は、何よりも代え難い絶対的価値によって存分に担保されてしまうのである。



* 人間の存在とは、常に身体を効率的に転がしていく自我が確信的、又は非確信的に状況を作り出してきたか、それとも、その時々に捕捉されてきた状況に如何に対応してきたかについて、それ自身のうちに刻んできたその軌跡の集積の様態であって、その軌跡から特定的な情報のみを、恰も、それが一つの価値の検証であるかのように抽出したり、或いはそれが、存在総体の負性価値を表出するものとして摘出したりすることが表現的には可能だが、しかし、そこでの自我の振れ方が極めて恣意的な様態を示すから、その自我の本来的な性格が包み隠さずに炙り出されていくのである。
 


* 「自分が今どこにいて、自分が今、何によって満たされているのかという命題に対して、上手に表現できなくとも、自分なりの確かな解答を身体提示できるような実感」-― これが「生きることの意味」の内実である。

 この実感の継続が、人々の幸福の稜線を未来に繋ぐ絶対的な何かであると思われる。それ故、「生きることの意味」を特段に意識することなく日常内化している者こそ、声高に叫ぶことのない幸福の稜線を自己実現している者であるだろう。自分がイメージし得る未来に対する不安感を媒介することがないからこそ、敢えて過剰な蕩尽への身の預け方を回避できるのである。



* 内気さとは、壊れやすさと言っていい。壊れやすいが故に物語を矮小化し、その狭さの中に自己顕示と自我の安寧を確保する。物語のサイズを小さくすることで、悪意に満ちた他者からの侵入経路を未然に防いでいくのである。物語に隙間を作らないことで、他者の悪意の侵入し難さを堅持するのだ。

 壊れやすい自我が作る物語は、できる限り、それを壊れにくいものにする必要があるだろう。隙間だらけの大きな物語が内包する壊れやすさに比べれば、自我の耐性に見合った分相応なスモールサイズの物語は、日常的な自己完結を保障できる分だけ壊れにくいからである。



* いつまでも胸の奥の深い辺りに、X線でも捕捉できない繊維のような棘が刺さっていて、普段は意識の表層を目立って騒がせることもなく、その不定形の律動を伝える微塵の波動もないが、しばしば名状し難い思いが噴き上がってきて、内側をひどく騒がせる時間に拉致されるときなどに、その繊維の棘の存在感に不思議なほど親和力が働いてしまうことがある。

 何かの拍子で、内側の秩序を暗い記憶の粒子が噛みついてきて、時間を仕切る帳(とばり)を壊してしまうのだ。繊維の棘の不定形なる律動は、そこで開かれたイメージの宇宙を遊弋(ゆうよく)し、何か終わりの見えない自虐のゲームから、ズブズブの感傷を拾い上げることを止めないようなのである。

 私はそんなとき、思い切ってゲームにその身を預けてしまった方がいい、と括った者のような構えで、そのほんの少し危ない世界に這い入っていく。その方が合理的でもあり、つまらない感傷を却って引き摺らないで済むからだ。



* ここに、一つの踏み込んではならないゲームがあるとする。

 五人の親友のグループが無人島に漂流した後、四人乗りのボートを手に入れた。彼らの一人が、「自分が一緒に同乗したい者の名を書いていって、最後まで名前を書かれなかった者が一人出るまでゲームを続けよう。その者だけを島に残そう」と提案した結果、最後の一人があっさりと判明してしまった。残された一人が味わった感情の中に、孤独感の本質がある。

 孤独感とは単なる寂しさではない。精神的な喪失感と、それが継続することへの不安感。そこに孤独感の怖さの全てがある。



* 人は喜びを分ち合える友がいなくても、その喜びの分だけ生きていけるが、悲鳴を上げられずにいられない者が、その悲鳴を聞いてくれる者がいないときの辛さに果たして耐えられるだろうか。魂の叫びを誰も拾ってくれない孤独に耐えられる、極北の生き様を走り切れるか。

 心を病むことなく、堂々と、その孤高の稜線を上り切った者を私は知らない。人の自我には、それ程の跳躍力が備わっていないのだ。

 結局、我々はいつもどこかで少しずつ喰い合っていくしかないのである。 人は鬼にもなれば、仏にもなる。人を喰って生きる者もあれば、自らを餌にしてしまう者もいる。影にもなれば、光にもなる。撒き散らす不幸もあれば、拾い集める快楽もある。

 一切の生き様は、それぞれの人間の趣味の問題でしかない。自分の趣味の悪さを人のせいにすることはできないのだ。



* 辛いだけの人生を送る者は、益々、死のリアリティを招き寄せる。快適なだけの人生を送る者は、いよいよ死のリアリティから逃避する。死のリアリティを招き寄せて、遂にそれに掴まってしまう者は、死のリアリティから逃走した挙句、大往生を遂げる者の人生に対して、果たして決定的に不幸であると言えようか。

 死のリアリティを招き寄せる、その瀬戸際で勝負をする者が、いつかその勝負に負けるときがあっても、勝負の日々が彼らの人生に残した究極性において、彼らは抜きん出ている。彼らの何人かは、究極の人生に届き得たかも知れないのだ。しかし彼らの発した呻きだけは、余人の到達できぬ世界を駆け抜けたに違いない。



* こうすればそれが防げるという手立てが全くないとき、人は既に地獄の中にいる。

 石を積んでも、積んでも、なおそれが壊されてしまう地獄から脱出できなかったとき、貴方はどうするか。貴方の反応はやがて衰弱し、無気力な世界を広げていく。自我が秩序を作れずに、大狂気への逃走を図っていくしかないだろう。

 どれほどつまらない夢や希望でも、それが欠片ほどに存在するだけで、人は生きていけるのだ。快楽の本質は、それが達成されたときの喜びになく、それに向かって行進できる過程にこそある。この「プロセスの快楽」の醍醐味に生きられる人生をこそ失ってはならない。



* ほどほどにあるが、充分にない。充分にないことへの認知が、充分にあることへの思いを開かせるのが自我の欠落感覚である。欠落感覚が常に僅かずつ残されるから、人は自らのために動こうとする。動くことで、対象との関係が測られていく。動くことで、人は少しずつ賢くなるのだ。動いていく足跡に、自我が固まっていくからである。

 欠落感が直ちに補填されてしまうなら、動くこともないであろう。動く必要がないからだ。動かなくなることに慣れてしまうと、動くことに必要以上のエネルギーコストが払われる。だから、次第に動くことが億劫になるのである。



* 起伏の乏しい人生では、態度だけが人の記憶に張り付いている。起伏の激しい人生では、死に顔だけが語り継がれていく。態度を選ぶか、死に顔を選ぶか、それもまた趣味の範疇に含まれる。



* 夢を本当に実現してしまった人間が怖いのは、人格の達成速度が、夢の達成速度に追いつけなかったからである。夢を見る能力と、夢を実現する能力は違うのだ。夢を実現する能力は、実現した夢を維持する能力とも違うだろう。

 夢を見る能力すら育っていない者に、夢が現実となって襲ってきたとき、その現実を操作できない苛酷さこそビギナーズ・アンラックである。もう夢は見るまいと括って退却できるビギナーは、夢喰い人の基本文法だけは履修できている。退却できないビギナーだけが、自分を喰って生きていく。



* 「分って、聞いて、突き放さない」―― これを「観音三原理」と、私は呼ぶ。

 この国では、この原理の中に優しさのエキスを掬いとっている。優しさとは、この国では肯定的に反応していく態度のことらしい。だから父母に向かって、師や友に向かって、「察して欲しい」という表情で勝負するのか。

 この蜜は覚悟して舐めた方が無難である。あまり舐めすぎると足腰が脆くなり、退路を引き返す突破力が絶え絶えになってしまうのだ。人生では、癒しの沼から攀(よ)じ登っていくのが一番難儀なのである。



* 自我を裸にするから、家族の中性化が不可避となるのだ。家族には、「男」とか、「女」などという、世間で使う性別呼称は不要なのだ。ただ、「役割呼称」だけが求められる。それ以外の何もいらない。自我を裸にして、愛情と援助を円滑に出し入れするには、恐らく、その方が遥かに好都合なのだ。ゲームにもアクセスしやすのである。



* 家族の喧嘩にも不文律がある。そこでの様々なルールを貫流する禁止条項というのがあるはずだ。それを私なりに要約すると、「無視」、「拒否」、「攻撃」ということになる。

 最も過激な家庭内暴力とか、「緊張」→「暴力」→「ハネムーン」という回路を循環すると言われる、配偶者間等のDVというものは、当然の如く、関係が作り出した過緊張の必然的な暴発点としての「身体攻撃」の最悪のパターンとなる。「身体攻撃」はその主体の自我破壊を含むが故に、暴力の日常化は家庭の機能を不全化するのは必至であるだろう。

 「拒否」というパターンも同様だが、「無視」というパターンになると、関係のラインの衰弱を意識が捉えてしまうから、家族という物語の再生は困難を極めるだろう。家族はゲームにすら向かえなくなってしまうからである。



* 看護の継続力を愛情以外の要素で補填する者は、そこに何を持ち出してくるか。何もないのである。愛情の代替になるパワーなど、どこにも存在しないのだ。強いてあげれば、「この子は親の面倒を看なければならない」という類の道徳律がある。

 しかしこれが意味を持つのは、愛情の若干の不足をそれによって補完し得る限りにおいてであって、その補完の有効限界を逸脱するほどの愛情欠損がそこに見られれば、道徳律の自立性など呆気なく壊されてしまうのである。

 

* 「母は善なり」という、浮ついた俗言に深入りすべからず。

 命をかけて愛児を守った母の話も、被爆直後の死屍累々の惨状の中で、我が子を踏みつけて走り去った母の話も、人の世界では、当然の如く真実であって、それらを特殊化する感覚の貧しさに一縷(いちる)の救いが窺えようとも、自らがその状況に置かれれば、自然なる振舞いを刻む身体表現の答えのイメージに近づいてしまうのだ。

 我が子の危難に愛情に目覚めた母がいるかも知れないし、愛児を残して去った母が深々と悔いる可能性も高い。咄嗟の判断による行為のみを切り取って、それを物語化する着想の中から胚胎された俗説には近寄らない方がいいのだ。「母は善なり」ではなくて、「母もまた人なり」の方が正解なのである。
                     


* 人は、自分の中にあって、自分がどこかで受容できないか、或いは、偽装武装する観念の継続にしばしば疲弊する心理状況下において、それとは無縁な個性と出会うとき、そこに異質なる個性のクロスの心地良い刺激情報を感受するケースが、少なからず散見されるであろうということだ。相互に対極性を放つ人格が、身体を介在するバトルを絶対的に回避する担保を手に入れて、心の不思議な引力によって、相互的に補完し得る作用が現出してしまうのである。

 そのとき、相手の異質なる人格様態を自分の側に少し引き寄せて、そこに、一つの固定化されたと信じる自我が拡大的に視界を網羅してしまうのだ。そこに、人間の変わりやすさの一つのモチーフが検証されるのである。



* どうしても何かを吐き出さざるを得ない内的状況があって、それを吐き出したら楽になるかも知れないという、追い詰められた者がしばしば現出する、縋り付きたくなるような思いがあった。そしてそれを今、吐き出さなければ危ないと感じた臨界点の辺りで、遂にそれを吐き出した。

 そういうことを可能にした環境が彼を救い、その環境に半ば本能行動的に身を託した純なる魂がそこにあった。その魂は、そうしなければ自らが呆気なく解体される恐怖の前で立ち竦み、その隙間に未だ力を持っていた少年の自我が、明らかに〈生〉の方向に振れたのである。従って、この魂の救済は、その魂を見守る環境にサポートされた自己救済だったとも言えるのである。



* 否定的自己像を肯定的自己像がほんの少し上回ることで、人は内側の秩序を何とか確保する。このささやかな安定を、理不尽な暴力の侵入が根底から破壊する。暴力が相手の否定的自己像を執拗にヒットしていくことで、相手が死守しようとした肯定的自己像をも砕いてしまうのだ。

 こうしたモデルをなぞった暴力こそ究極の残酷である。相手の自我のしなやかで、それ以外にない復元を全く許さないからである。



* 否定的自己像をヒットされた者は、二重の意識に囲繞される。傷を負った意識と敗北意識である。前者は相手を憎み返すことで幾分かは払拭される。

 しかし敗北意識だけは、傷つけ返さない限り心が晴れないのだ。相手を跪(もが)かせ、苦しませることによってしか完結できない、圧倒的な怨念の連鎖の恐怖が、ここにある。簡単に傷を負うシャイな人がいつでも相手に報復できるとは限らないから、一方的なダメージだけが自我にプールされて、自らを苛んでいく。これが絶対経験となって、自己を喰って魔境で生きるのだ。



* 彼女とデートすると必ず雨が降るという伝聞によって、一人の雨女が誕生する。デートした男は、その最も印象的な日に雨が降っていて、しかも、それが二回続いたことの鮮明な記憶は雨女のイメージに集合した。実は、それ以外の平凡なデートの日の多くが晴天であった記憶が、その平凡さの故に薄らいで、男の中で、雨天のプロポーズの快楽が自在に動き回ってしまうのだ。

 予知夢を見たけど身内の死が訪れなかった一切の夢は急速に忘れられ、予知夢を見たら本当に身内が死んだ人の偶然の夢だけが巷を跋扈(ばっこ)し、人々の記憶に鮮烈に刻まれる。印象の濃度で情報を選別して生きていく人間の、未だクリアできない超能力の誘(いざな)いの仕掛けは、かくも味気なく、単純だった。




* 他人の喧嘩に簡単に入れないのは、「当事者熱量」と「第三者熱量」に大きな落差があるからだ。

 当事者同士は相手の僅かな態度の挑発に激しく反応し、相乗効果によって益々納まらないし、周囲はバックドラフトを回避しようとするので、そこに熱量落差が広がるばかりとなる。しかし当事者の多くは、プライドが充たされるような第三者的調停を望んでいるから、熱量落差の中でクールな棒が挟まれることで、一気にリバウンドに向かっていく。言いたいことを全部言って、且つ、プライドラインの補正が有効なら、あとはただ引け際のタイミングだけである。

 「第三者熱量」の存在こそが、当事者を救うのだ。熱量落差の状況こそが、多くの争いに様々な選択肢を導入するのである。集団には、常に一定の熱量落差が必要なのである。クールな棒もまた捨ててはならない。



* かくも氾濫した情報社会の中で、不快情報をもたらす者との出会いも又避けがたい。この社会で自分が出会う凡ての人に好かれ、評価されようと思うこと自体、充分に傲慢である。

 この社会で疲れないためには、第一にその幻想を捨てること。第二に自分を嫌う者、或いは自分が嫌う者との関係を、倫理的な理由で好転させようなどとは決して考えないこと。

 相手もそれを望んでいるとは限らないので、自分の報われない努力のリバウンドを処理する能力が欠けたら、関係はいよいよ悪化すると見た方がいい。相手との適切なスタンスを確保して、不快情報の侵入を極力防いだ方が有効な知恵になるのだ。

 社交を趣味とする者の世界に、それに馴染めない者が簡単に踏み込んではいけないのである。何より大切なのは、自分の納得する規範を作って、自らの適正サイズで生きていくことだ。



* それでも人は生きていく。とりあえず、今死んだら困るから生きていく。死ぬに足るだけの理由がないから生きていく。時代の、眼に見えない移ろいの中で生きていく。

 始まりがあって、終りがある。そこに取るに足らないことしか起こらなくても、円環的な日常性を巡って、巡って、巡り抜いて、それでもそこにしか辿り着かない時間の海を漂流するようにして、一時(いっとき)の心地良さと出会うために生きていく。

 人生は所詮、なるようにしかならないのだ。運命の悪戯もあれば、際どい分岐点もある。どれほど努めても、何ものにも結晶化できないこともある。何もしなくても、向こうから天使が誘(いざな)ってくれるときもある。一切は幻想かも知れないし、何事も不定形な観念の饒舌なる遊戯かもしれないのだ。

 それが偶然だったか、それとも必然だったか、実は誰も定められないし、そこに残された固有の思いだけが、その軌道の評価を括っていくだけなのである。

 それでも人は生きていく。それだからこそ、人は生きていく。定まっているようで、定まらない人生の悪戯を信じることができるから生きていく。



* どれほど辛くても、これをやっていれば少しは辛さを忘れられるというレベルの辛さなら、軽欝にまで達していないのかも知れない。

 忘れられる辛さと、忘れようがない辛さ。辛さには、この二種類しかない。

 楽しみをもつことで辛さを忘れられる者を、「躁的防衛者」と言う。多くがこの人々だ。辛さを忘れるためだけの娯楽を決して揶揄してはならない。それを揶揄するほど私たちは強かったのか。文化の存在価値の一つがそこにあることを、私たちは安直に否定すべきでない。

 私たちは実際の所、まだ死にたくないから生きているだけなのかも知れない。その事実の重量感は、意外に軽視できないのだ。だからこそ、辛さの忘却が不可避なのだ。雄々しく立ち上げることだけが人生の輝きではない。辛さと娯楽を内側で安定的に共存させる能力の高さこそ、幸福をミスリードしない者の小さな輝きなのだ。



* どのような娯楽によっても癒されない辛さを抱える者に、救いはあるか。救いがあったと言える者は、その救いこそ癒し得る娯楽だったのだ。

 宗教が自分を救ったと言い放つ者は、その宗教こそ格好の娯楽だった。愛もまた娯楽だった。暴力もしばしば娯楽になる。残酷の快楽という、とっておきの娯楽もある。

 人間はどのようにでも化け得るし、どのような救済でも発明し得る。条件さえ嵌ればどのようなシフトをも可能にする人間のこの無秩序こそ、人間の脆さの証である。

 条件によって動かされるその人間だけが、条件を作り出す。そこに人間の一つの救いがある。人間の壊れやすさが、人間に救いの道をもたらした。癒されがたい辛さをもつ者に、それを束の間、中和させる多様なコードが開かれている。人間の脆さゆえに、常に過剰に開かれている。



* 人が人を赦そうとするとき、それは人を赦そうという過程を開くということである。人を赦そうという過程を開くということは、人を赦そうという過程を開かねばならないほどの思いが、人を赦そうとする人の内側に抱え込まれているということである。

 人を赦そうという過程を開かねばならないほどの思いとは、人を赦そうという思いを抱え込まねばならないほどの赦し難さと、否応なく共存してしまっているということである。私たちは、人を赦そうという思いを抱え込んでしまったとき、同時に赦し難さをも抱え込んでしまっているのである。これがとても由々しきことなのだ。

 相手の行為が、私をして相手を赦そうという思いを抱え込ませることのない程度の行為である限り、私は相手の行為を最初から受容しているか、または無関心であるかのいずれかである。相手の行為が、私をして相手を赦そうという思いを抱かせるような行為であれば、私は相手の行為を否定する過程をそれ以前に開いてしまっているのである。この赦し難い思いを、自我が無化していく過程こそ赦すという行為の全てである。

 赦しとは、自我が空間を処理することではない。自我が開いた内側の重い時間を自らが引き受け、了解できるラインまで引っ張っていく苦渋な行程の別名である。
 


* 笑って赦せる人は、最初から赦さねばならない時間を抱え込んでいないのである。赦す主体にも、赦される客体にも、赦しのための苦渋な行程の媒介がそこにないから、愛とか、優しさとかいう甘美な言葉が醸し出すイメージに、何となく癒された思いを掬(すく)い取られてしまっている。あまりにビジュアルな赦しのゲームが、日常を遊弋(ゆうよく)することになるのだ。ゲーム感覚で日常に流される赦しの非自立性と没個性が巷に溢れ、関係に漂う空気から緊張を奪い、リアリズムを限りなく無化しつつあるのだろうか。

 人を赦すとき、私たちの内側には、既に、相手に対する赦し難さをも抱え込んでしまっている。この赦し難さを内側で中和していく行程こそが、赦しの行程だった。



* 性格を変えようなどとは安直に考えないことだ。変えようと思っても、性格はなかなか変わらない。変えようと思う心が変わっていくだけだ。変えようと思う心があるならば、行動パターンの変化の認知が、いつか自己像変化に逢着するとき、既にそこで何かが変わっている。変化のイメージが何かを動かすのだ。自分にはこんなこともできるのかという自己像の増幅が、内側で変化の胎動を嗅ぎ取ることもある。この実感の継続が自己像変化を加速する。

 性格が変わるとは、こういうことである。自己像変化に心地良さをもたらしたとき、人々は「内なる革命」を高々と歌い上げる。それは、ほんの少しの行動シフトによってさえ叶ってしまうのである。不断なる自己点検が切に要請される所以である。



* 「ここだけの話」と迫っていって展開される話の多くは、周知の事実である。周知の事実と化していることを承知で語る者の奥に、切ないまでの共有願望と、話を切り出す「間」において上り詰めた優越感と、話を仕切る快感が澱んでいて、既にその状況が発話者の人間像を炙り出している。

 そこまでして自分に注目を集めないと気が済まない小さな尖りは、話を聞くために小さな輪を囲って見せる細(ささや)かな友情こそが支え切る。 話者の共有願望は、人々の共有幻想の内に予定通りに溶けていき、次々にリレーされていくのだ。

 「ここだけの話」の威力は圧倒的なのである。それは内実よりも、形式だけが醸す圧倒性である。実に安上がりの神経増強剤である。



* 苦悩への対応には二種類ある。

 苦悩の現出に同じ様にダラダラ悩み、ただ状況のシフトに待機するだけの対応と、苦悩のルーツを把握し、それを中和し、相対化するために、自我を束の間いじめる対応の二種類である。前者を「防衛的苦悩」と呼び、後者を「攻撃的苦悩」と呼ぶ。

 時として人は、「防衛的苦悩」を不可避とするが、苦悩を転機にするなら「攻撃的苦悩者」であらねばならぬ。どのような苦悩の襲来にも壊されない自我を作るための免疫を形成し、これが後の「大苦悩」を突破する貯金となることを信じ込ませ、「今、このとき」の辛さを生きることだ。

 明日を捨て、「今、このとき」を生き切って、生き切った後の宵の晩酌に流れ込むこと。生き切った自己像の確保の中で、束の間、酩酊すればいい。攻撃的なイメージの繋がりが、貴方をぎりぎりに守り切るのだ。


 
* そこに、過剰に踏み込むことによって失うものよりも、踏み込まないことによって守られるものの方に価値を見出すのは、魔境に誘(いざな)うような様々な経験から、常に回避する臆病さを検証するものとは決して言えないのだ。

 私たちはそんな「人生知」の重要さについて、あまりに無頓着であり過ぎるのではないか。 



* ある目的を実現するプロセスの中で、人はしばしばゴールラインの遥か手前に佇んで、陶然としたひと時を愉悦することがある。文化という名の余剰の時間と遊んで以来、私たちはそのような佇みの価値を自立化させて、そこからたっぷり蜜を舐め、時にはそこで自らの時間のうちに上手に自己完結させることで、果てることさえ厭わない。その快楽を私は「プロセスの快楽」と呼んで、所謂、ゴールの快楽(「達成の快楽」)と分けている。

 それは「想像の快楽」を伴走させることで、達成を目指した遥かな行程を、意識が自らを加工して独りで支え切ってしまうのだ。

 それは甘美な夢遊びのゲームともなって、時間の曲線的な航跡に絡みつく様々な凹凸を潤し、フラットな人生の記憶に彩りを添えるのである。ただそれだけのことだが、気恥ずかしくも、添えられた彩りが物語のサイズを異化しない限り、ゲームは私たちを、私たちがそれ以外に存在し得ない場所に、迂回のコストを幾分乗せながらも、しかし確実に軟着陸させてくれるのだ。



* 出会うべき必然性のない人間と出会ったら、すぐ忘れることだ。出会うべき必然性のない幸運と出会ったら、必ず梯子(はしご)を確保しておくことだ。出会うべき必然性のない不幸と出会ったら、それを直ちに相対化してしまうことだ。これが、身の丈で生きていく極意である。

 偶然性に過剰な思い入れを供給し過ぎると、軌跡の重量感が削がれることになる。人生の多くは意志が拓いた必然の濃度が深いものの集合だから、偶然の昇天に舞い、その一撃で灼かれる時間の新鮮さに捕捉される必要もない。

 人生の総体は、印象の強度で測られるものではないはずだ。多くの印象的なだけの偶然は、ただゲームとしてだけつき合えばいいのである。



* 一級の預言者は、未来に踏み込み過ぎることをしない。踏み込んでも何も分らないからだ。だから彼らは語らない。しかし彼らは、全く何も語っていない者のようには決して語らない。その素朴で、一見フラットなフレーズの奥に、一定の経験則に裏付けられた、深い人生の識見が垣間見える者のように、彼らは語る。彼らは恰も、言葉を更に厳選するための間(ま)を尊ぶ者の如く、ゆっくりと、誰でも分るフレーズをそこに放つのだ。



* 「私の心は見透かされている」という心理の負性が、占い師に対する一種の畏怖感を生み出すことで、早くも心理的な上下関係が、そこに形成されてしまうのだ。「世俗の預言者」の前で自我を裸にした者は、自ら抱え切れぬ負荷を背負って欲しいという願望の強度によって、かの者への関係の依存性が定まるのである。

 そんな不安耐性の低い人々は、「世俗の預言者」から一体何を手に入れるか。

 確信か。そうではない。人々が「世俗の預言者」から受給される最大のものは「安心」である。人々は辻の一隅で、「安心」をこそ手に入れたいのである。この消費は、確信もどきで「安心」の売買を成立させ得る癒しのビジネス以外ではないのだ。

 癒しのビジネスの成功の秘訣は、何も語らないところにあった。何も加えないところにあった。辻占い師は、「世俗の預言者」という名のカウンセラーであったのだ。だから彼らは強いのである。だから人々は切実
だったのである。



* 病気を治すことを、一つの賭け事の如く考えてもいいのだ。

 この人に任せるという気持ちが、既にギャンブルなのである。「病識からの解放」を託せる人との出会いから、全ての医療は出発するのである。今度は患者主体にとって苛酷なようだが、託した医師のミスから失命しても、それを受容し得る覚悟で内側を固めていくことで、その気概が、「病識からの自己解放」を果たすことになる。私自身の経験を踏まえても、それが厄介なテーマであることを認めてもなお、「病識からの自己解放」こそが究極の医療であるとも言えるのだ。

 自己解放力の達成度を高めていければ、私たちはもう何も望む必要がない。絶えず自分の抵抗虚弱点(主に、自分の身体の最も弱い点)を見据えていって、それを少し合理的に補填していければ、私たちはそれ以上何も欲する必要もない。私の内側に発し、私の内側で認知し、その内側を解放していく。その気概を捨てなければいいのである。



* 最新の印象が関係を揺するからこそ、人は親しき仲にも、その関係に見合った一定の規範を設定せざるを得ないということだ。そこでの眼に見えない規範が、適正スタンスを獲得する。そのスタンスが自我に記憶されて、感情の出し入れを練り上げていくのである。この練り上げの中で、情報が昇華されて知恵となる。知恵を積み上げた関係は崩れにくいが、知恵は決して万能ではない。知恵の届かぬ前線で生じた破綻の広がりは、あまりに性急なのである。

 だからこそ人は、最新の印象シフトに気を配る。過去に険悪だった関係も、最新の印象シフトで、あっという間に修復を果たし得る。勿論、そこにも臨界ラインの設定はある。しかしこのことは、関係という不定形なるゲームに、敗者復活戦の余地を残していることを示すものだ。関係の復元力もまた、「新近効果」(最新の印象が、対象の評価をしばしば決定付けてしまうこと)によって検証されるのである。



* この世で最も恐るべきものは、殆ど人間の問題に内在する。

 例えば、人間の力でどうすることもできないものに自ら努力し、解決しなければならないという状況に置かれること。報われない努力を重ねてもなお人が生きるとき、果たして人は、それなりに目的的に累加した時間の中で何を見て、何を捨て、何を捨てることなしに生きていけるだろう。

 その中で人は、その人がその人であったところのものを、その人のあるところのものとして、それが例え、見るに堪えない鈍走であろうとも、納得のいく自己完結を果たせるかどうか。少なくとも私にとって、それらは全て未知の領域だった。



* 人の心を蝕む、止むことのない疼痛というものを、貴方はどこまで理解できようか。人の痛みを知るなどというおぞましいラインで、存分なほどに世俗を振り撒いてくれるな。その心地良き舌から、愛や救いを転がしてくれるな。

 苦痛が引き摺り出してきた卑屈さに貴方は降りられるのか。貴方が降りようとするその辺りまで、とうてい私は飛翔できない。貴方が拠って立つその眺めのいい部屋の辺りまで、私はとうてい飛翔できない。私が堕ちていったこの落差にも、貴方はとうてい気づくことはない。この深く、およそ何ものにも埋め難い空気の分裂が、堕ちゆく者の内側を削り取り、空洞化し、初めからそこに何もなかったもののように見えなくしていくだろう。

 絶対的孤独感 ―― それこそ、見えなくされた者が最終的に辿りつく心の風景だった。



* 幻想が壊れるとき、人は大抵、極限的な状況か、若しくはそれに近い状況に置かれている。どこまでも届くと思っていた愛という名の稜線がぼんやりしてきて、人は対象を見る前に、まず自分の足元を見てしまう。その足元が、抑制のきかない程度に揺らいでいるのが見えてしまうのだ。揺らいでいる足元から、人はもうどのような錨も投げ込めない。そこに橋を架けたいと思う力のない願いは、いつでも重いリアリティの前に蹴散らされていくのである。そのとき人は、自分を傷つけないギリギリの優しさの中に物語を加工する。

 「あれはあれで仕方がなかったのだ」

 何ものをも傷つけなかったと信じる心理学的技巧によって、人は次の旅立ちに待機することができるのだ。幻想の破綻は次の幻想によって埋まってしまうのである。幻想を必要とせざるを得ない唯一の生物 ―― それが人間なのだ。



* 人生には、予約されない恐怖というものが満ち満ちている。

 人は日常的にはそれを意識しない。意識しないから、日常性という名の枠内秩序をしばしば留守にする。やがて留守にしたものへの帰還がお座成りになって、帰還していくものへのイメージが内側に定着できなくなっていく。帰還していくものを見えにくくすることで、人は少しずつそこから離れていって、そして過剰になる。拠って立つ何か厳しいものに縛られていないと、人は大抵過剰になると言っていい。

 過剰になるほどに、人は危うさを連れてくる。危うさもまた劇薬となって、人はますます過剰になるのだ。過剰なるものは危うい綱渡りとなる。この危うい綱渡りを、人はゲームの範疇でどこまでカバーすることができるかどうか、そこに得失点差が生じるようだ。



* 強迫的な反省をどれほど束ねても人は簡単に変われないという確信を、私は経験的に持っている。まして気の利いた言葉と幾つか出会っただけで、「この言葉が私を変えた」などというロマンチシズムに酩酊できる御仁は幸福である。

 私から言わせれば、それは一握りの成功者が自らの物語を美化するために仮構した自己幻想に過ぎぬ。弱き者が心地良い言葉のメロディを耳にしたくらいで、確かな何者かに化けたという寓話には反吐が出る。自分に奇跡が起こったと信じる者は、他に選択肢がない状況の中で、その御仁が最大限の努力を発揮すればここまで達成できるという能力を、単に示すことができたに過ぎないのである。



* 「人には色んなことがあるように、私にもあった」という無難なラインで物語を収斂するためには、人に話せる限りでの善行と悪行の記憶を、現実原則に拠って立つ自我が把握し得る、相応の「損益分岐点」への配慮を怠ることなく適当に攪拌(かくはん)し、且つ、「認知の不協和」に雪崩(なだ)れ込まない心理的技巧のサポートによって、「私の物語」を繰り返し確認していけばいいのである。「私の物語」とは、それぞれの自我が自らについて仮構しているイメージの城砦であるからだ。



* およそ同質の疼痛を共有する経験などあり得ない。自分が占有する辛さの経験だけが人を孤独にし、その孤独が他者の孤独に、その辛さを埋めるに足ると切望する分だけのアーチを架ける。それが自死に向かう他者の孤独の、陰影の弱々しい部分にまで這い入っていける決定的なモチーフなのか。



* 壊れかけたものの中で、人はどこまで旅を重ねていくのか。壊れゆくものの恐怖が、壊れゆくものを加速的に破壊し、自死へのエネルギーをほんの少し残したところで、人はようやく流離(さすら)うことを捨てるのか。

 実の所、壊れゆくものの恐怖には、ほんの少し残したはずの自死への物理学的エネルギーが、いつか剥落するのではないかという、もっと深い恐怖が横臥(おうが)している。疾病による凄惨な死を回避したいために、人は自死へのエネルギーを蓄えておくのだ。安楽死という保険から除かれた者たちは、既に「疾病利得」などと呼ばれる不快な展開の見えない時間とは無縁な辺りで、予約された臨終に向かうギリギリのエネルギーを確保する技術を、まさに崩れゆく日々の只中で手に入れる以外にないのである。



* 奇麗ごとの言辞を連射すればするほど自分が愚かに思える者は、そこに意識が働いている分だけまだ救いがあると言えるだろう。しかしまだ逃げ道がある。自分の愚かさに気づいても、その愚かさの表層の部分だけを槍玉にあげ、自分を深く傷つけない程度に悩むこと。

 もう一つは、自分の愚かさをセールスすることである。愚かさをも顕示することで、自分の愚かさを他者の物分かりの悪さによって中和してもらうことである。だから過剰な謙虚さは、この国ではしばしば有効なセールスになるのである。



* 断崖の険阻な岩陰に懸かった壊れそうな巣に、母のいない一羽の瀕死の雛が、餌の代わりにとうとう固くなった自分の糞を啄ばんで、頗(すこぶ)る元気になったと思い込んだ。

 まもなく啄ばむ糞が消えても、雛は空気を食べて元気を継続できると信じ込み、殆ど宗教の世界で生き抜けた。信仰を糧にした雛は、視界が狭い分だけ強かった。巣の中の狭隘な温もりが、雛の信仰を強化したのである。本物の餌のない雛の寿命がいつ果てるか、雛だけがそれを知らなかったのか。

 雛は自らの危機を、もう乗り越えたと信じたかったのだ。信じることに縋りたかったのだ。だからしばらく、空気だけで生きていけたのである。



* 自らの弱さをカバーすることに過剰なエネルギーを蕩尽することは、決して青春の特権ではない。人は大抵、そのような醜悪さを晒さずに生きていけない。しかしその自己認知を、汚れの見えない浅瀬で済ますのは避けた方がいい。

 弱い者が集合し、慰め合って魔法をかけ合っても、恐らくもっと弱くなるだけだろう。弱き者の旅の果てに何も待っていなくても、何も待っていなかったという辛さの中に、この鈍い歩みを受け止めて、受け止めた場所からなおフラフラした鈍い歩みを続けていくしかなかった。弱き者のその足掻きから、ほんの少し勇気ある気分に届くには、足掻きを継続する執着心と言えるような何かが必要だったのだ。



* 昨日まで壊れかけていたものが、今まさに壊れゆくものをどこまで救えるのだろうか。

 壊れかけていた恐怖から解放されたという幻想が踊っている時間の只中に、その幻想を揺さぶる現実が表層の自我に刺激を与えてしまうと、壊れかかっていたものが今内包する、吐き下せない黒々とした澱(おり)が静かにしていられなくなる。つい先日まで揺らぐ魂と似たものが、眼の前に立ち現れた不快こそ、自分の弱さを繰り返し暴かれる遣り切れなさを増幅する。その遣り切れなさが一つの言動に繋がると、今壊れかけているものは、その僅かなエネルギーから搾り出そうとしているものを、澱みの奥に戻してしまうだろう。病人が病人を救うのは困難であるか、またはあまりに冒険すぎるのだ。



* 不意に沸き起こる空しさの感情のルーツを合理的に説明したとしても、そうした説明そのものに空しさを感じたら、人は最後にどこで安寧を手に入れるのだろうか。観念が感情を支配し切れない隙間では様々な思いが蠢(うごめ)いていて、それらを抑え切るには、宗教的な断定が最も簡便な方法論である。その道を険しく歩まないためには、余計なものを忘れていくことだ。忘却のスキルこそが、人生を少しでも快適にする知恵となる。こうして人は、過去を忘れるのが上手になっていくのである。



* 人は常に過剰なるものに誘(いざな)われて止まない生き物である。生きるということは、過剰なるものへの誘(いざな)いと如何に折り合いを付けるかという高度なゲームでもある。

 常に人格主体の最適戦略を模索し、合理的行動を選択する「ゲームの理論」の決定力は限定的であるだろう。人生のゲームに始まりはあるが、終わりが見えない。それが一番怖いのだ。

 人は常に死んだら困ることの根拠を、自らの内側に見つけ出す努力を惜しまないに違いない。それがあるから今の自分がある、という何かをより堅固に育て上げてしまうのである。それが、程々な場所に落ち着けないという危うさを内包する。これが怖いのだ。

 それが例え、正の過剰と見えるものでも、流れの行き着く果てには、均衡を崩して手に入れたものからの報復が待っているかも知れないからである。



* 絶対的弱者は絶対的に孤独である。

 これは自らが他者に全面依存しているという確信的辛さがますます弱者を孤独に追いやり、弱者の自覚を絶対化する。弱者はもうこの蜘蛛の糸から脱出不能になる。弱者はかなりの確率で抑鬱化するだろう。壊れゆく明日のリアリティに引き摺られながら、千切れかかっても、なおそこに留まっている自我の生命力に、ひたすらぶら下がるのみである。

 何ものにも埋められない荒涼とした風景が何処までも伸びていき、震えを止められない自我が定点を失って、その体力の臨界点を越えたとき、それが支えた身体の中枢から、加速的な自壊現象が開かれてしまうだろう。絶対的弱者は壊れゆく明日の暴力の只中に、千切れかかった自我を必死にぶら下げて、あと一日だけ時間を延す知恵を作り出すことができるかどうか。そこに賭ける他はない。絶対的弱者にとって、人生とは賭博のようなものである。



* それは崩れゆく者の最後の供給源だった。草生(くさむ)す廃道に蹲(うずくま)る意志が、褐色の空に縋りつく。天の糸にぶら下がるのだ。

 自我の異臭が何もかも退けていた。先が見えなかった。軌跡も消えていた。そんなことはもうどうでも良かった。天の糸にぶら下がる以外になかったのである。最後に供給してくるものを信じたかったのだ。冥闇(めいあん)と弧絶の闇を抜けようなどとは思わなかった。

 一切は、この日を抜けるだけだった。一切は、この日に有りっ丈の養分を満たすことだった。この日だけが全てだったのである。この覚悟こそ、脆弱なる者の最後の到達点だった。



* 「絶望とは死に至る病だが、絶望の苦悩は死ぬことができないというまさにその点に存するのである」―― これは、キルケゴールの有名な「死に至る病」の中の一節。

 自ら死ぬことすらできないという絶望状況の中で、死の到来に待機するという過酷な精神世界の本質は、自我機能の運転不可能性ということである。自我は、常により生命の安全性を確保するために機能するものだが、このとき自我は、生命の保障を確保し得ない状況に立ち会って、運転不可能性に搦(から)め捕られてしまうのである。この状況の中で自我の救済トリックに挫折した人間は、「死という最後の希望さえも遂げられないほど希望がすべて失われて」(前掲書)、ひたすら死の到来に待機するばかりなのだ。



* 人間はもう生きることに耐えられないと、自我が記憶し得る臨界点でこそ自殺するのであって、このときこそ、ある意味で精神的苦痛がピークに達したときあると言っていい。なぜなら、このとき自我が、苦痛を最大限に記憶しまうからである。

 しかし人間は、苦痛の持続になかなか耐えられない。自我は機能不全に陥り、自殺の衝動に駆られる。そして機能不全に陥ってもなお、生き残された自我エネルギーを駆って、人は自殺に走るのである。自我は、なお続く苦痛の持続に耐えられなくなってしまったのだ。

 自殺への臨界点とは、自我エネルギーの臨界点なのである。生命維持という根本的機能が、苦痛の持続しかもたらさない生命維持の虚しさの前に自壊する心理的構図が、ここにある。自殺はそれを防ぐに足るほどの自我エネルギーをストックできない自我が、僅かなエネルギーを駆って行為化された、人間にとって唯一の意志的な自我解体の手段なのである。



* 「バルド・ソドル」(「チベット死者の書」)という、現代にあって奇跡的な物語がある。

 曰く、人は死に至って最高の精神的到達点を極める。それから4年間の間、やがてこの光が失われるに及び、恐怖が襲ってくる。この恐怖の中で再生を賭けた旅が遂行され、遂に子宮の一つに逃げ込むことで、一つの魂の旅が終焉するが、これはまた新しい再生の旅の始まりとなる。よくある輪廻転生の物語である。

 私はこの書を何度読んでも、心に伝わって来るものはない。私の近代的感性は、こういう書物を受け付けなくなっていしまっているのだ。

 確かに「死んだら何もない」ことを受容することは、自我によって生きている人間にはあまりに辛すぎる。これは、死を告知された者がそれを受容するまでにかなりの心理的葛藤を経由するという、例の有名なキューブラー・ロスの報告によっても窺うことができる。彼女によると、死を意識するプロセスは、「否認」→「怒り」→「取引」(死神との取引によって死を受容する心理体制を準備)→「落胆」→「受容」という風に仮定されていて、最後の段階でようやく心理的安定感に達成するというものだ。

 このような心理的変遷を思うにつけ、人間が自らの自我を最終的に解体されてしまうことへの恐怖に対峙してもなお、まさにその自我によって、「生」→「死」という絶対矛盾の物語の組み替えに固執する姿を垣間見せられて、つくづく自我なしに生きられない人間の悲哀に慄然とする外はない。

 それでも私は、敢えて書く。

 「魂(自我)が永遠に続くだって?それだけは御免蒙りたいね。自我は疲れるだけだ。あの世に行ってまでも苦労したくないからね」と。

 既に近代人の感覚を身につけてしまった男の、それ以外にない「死の普遍性」という畏怖すべき事態への括りであるということだ。



* 「甘美な死のロマン」というような情緒的な発想で、自殺を語る人々に限って、恐らく、自殺から最も縁遠い御仁だと考えた方がいい。なぜならこの人たちは、実人生をロマンによって安直に語ってしまう人々であるからだ。

 然るに、若者の自殺は自我の組み替えに挫折したときに出来するというのが、正しい分析である。自我に過剰にストックされた自我自身の耐えられなさがピークに達したときこそ、人々は自殺する。そこには、「甘美な死のロマン」など入り込む余地がないのだ。

 「甘美な死のロマン」の正体とは、死の中に「自我救済物語」、即ち死後の生命とか、魂の永遠とかいう、人間が勝手に作り出した物語によって、補強されてしまうような死であって、これも自殺のカテゴリーに入れられてしまっているから、自殺概念は文学の世界に搦め捕られてしまうのである。

  

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